Yusuke Chiba

記事一覧(67)

最先端の共生。giFtという場作り。【山之内匠(天草/giFt)】

山之内匠(天草/giFt)突然に親から告げられた伊豆南への移住。天草としての活動、giFtをスタートさせた今、それは決まっていた必然だったのかもしれない。脱資本主義のひとつのスタイルとしてのドネーションでの場作り。古くて最先端の共生がここから発信される。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchu Taishi ☆ Starー まずgiFtのコンセプトを教えてください。匠 端的に言うと、giFtボックスで1階部分のスペースを成立させようということなんです。投げ銭、あるいはお賽銭であり寄付でもあるかもしれない。いろんな言い方があると思うんですけど。例えば誰かがコーヒーを飲んだとします。このボックスに100円を入れてくれるかもしれないし200円かもしれない。それはあくまで、こちらが決めるものではなく、払う人の気持ちもそこに含まれるというか。ー 値段が決まっていないということ?匠 サービスも値段も決まっていなくて。ー そもそもは商店街にあるこの場所を活用しようということからのスタートだったのですか。匠 南伊豆の地方創生という動きのなかで集まってきた人たちがいるんです。その人たちに僕が話を聞きにいくなかで、商店街で何かをやりたいっていうことになったんです。そして多拠点居住、コワーキングスペースっていう要素を含んだ場所を作ろうという話になって。

サーフィン文化を 日本に定着させるために。【進士剛光(RINE SURF)】

進士剛光(RINE SURF)目の前に海が広がり、当たり前のようにサーフィンをするようになった少年はプロサーファーとして世界の波にも乗るようになっていた。海への感謝を込めて、サーフィンの魅力を伝えているpatagoniaのアンサダー。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchu Taishi ☆ Starー サーフィンをやるようになったのは何歳の頃でしたか?進士 親が言うには3歳のようです。自分では覚えていないんですけど。親がサーファーでしたから。ー 生まれが下田?進士 そうです。家から海がすぐで、サーフィンが生活のなかにあるという環境でした。ー サーフィンのプロになったのは?進士 19歳のときです。サーフィンが好きで、上手になりたいと小さな頃からずっと思っていて。そのひとつの目標がプロだったのかもしれません。サーフィンをしていると友だちがいっぱいできるんですよね。高校くらいまでだったら、同じ年で同じ学校でというくらいしか友だちが作れないんでしょうけど、サーフィンを通して、他のところの人とも仲良くなれたし、年齢の離れた人とも知り合えた。いいことも悪いことも全部教えてもらって(笑)。ー 下田の海はサーフィンにとってはどんな環境なのでしょうか。進士 自然が残っていて、海の水はきれい。ライフスタイルとしてサーフィンが残りやすい波だと思います。サーフィンをスポーツとして考えているよりも、楽しみとしてとらえている人が多いと思いますね。ー それでは進士さんにとって海はどんな存在なのですか。進士 やっぱりないと困りますよね(笑)。海で仕事もさせてもらっているし。自分が生きている場所ですね。海が何らかしらの答えを教えてくれる。海に入る前とか後に、海に対して祈ることがあります。サーフィンをさせてくれた親、身近にある自然環境、そして現状や未来。心のどこかで海に感謝しているんでしょうね。ー 当たり前にあるものこそ、本当はもっとも大切なものであると。進士 山も川もきっと同じようなものなんでしょうね。特に自分に縁が深かったのが海であって。ただ同じような環境で生まれ育っても、他の土地に行ったり、海とはまったく関係ない仕事に就く人のほうがむしろ多い。だから自分は恵まれているんだと思います。

原宿から伊豆南へ。戻る場所を確認するために。【リリー&とおる(As it)】

リリー&とおる(As it)シーズンに入るとほぼ毎週末にどこかのフェスかイベントへ。自然のなかや地方都市から原宿に戻るというサイクルが続いた。果たして原宿は戻るべき場所なのだろうか。その答えを探すために伊豆南での暮らしがはじまった。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchu Taishi ☆ Starー ふたりはいつ頃から伊豆南方面に来るようになったのですか。リリー 震災があってからですね。とおるがサーフィン、私がボディボードをやっていることもあって、休みが取れればよく海に行っていました。震災後、湘南から北の海には入らなくなって。それで伊豆南に来るようになったんです。来るとペンションや民宿などで部屋を借りて泊まることになる。それだとお金もかかるので、物件を借りたほうがいいねって話が出て。それで下田の外浦に家を借りたんです。オフの時間を充実させるために。ー それは何年くらい前のこと?リリー 3年半前ですね。とおる 以前から知っていた人たちも少なくなかったんですけど、少しずつ知り合いも増えていって。来るたびにいいところ、いい人と出会うことができたから、どんどん深さも広がりも出てきて。ー そして原宿にあったSOLを閉めて、伊豆南に越してきた。リリー SOLは原宿で18年やっていました。イベントやフェスの出店のときには、スタッフにお店を任せて。出店が終わって、伊豆南に一戻ってきて疲れをとってリセットして、原宿の店に戻る。原宿ではお店に寝泊まりする。そんなスタイルでしたね。とおる 僕にとっては、原宿はいたい場所ではなかったし。ーフェスにはいつ頃から出店するようになったのですか。リリー 10年くらいやっています。もともと音楽イベントが好きだったので。だから出店という名目で遊びに行くというのがはじまり。最初はフェスに行きたいという気持ちがあって、じゃあ出店という形態にしたらいいかって。出るようになったら、やっぱり楽しくて。そこで出会う人たちも刺激をもらえる人が多くて。そこでつながって、今度がこんなイベントがあるからって誘われるようになって。

自由に自分らしく生きるための サーフィンとデッド。【ノブ(SPICE DOG)】

ノブ(SPICE DOG)サーフィンをするために、なんとなくやってきた伊豆南。そこには旅では得られない何かが存在していたのだろう。旅、そしてグレイトフル・デッドで教えてもらった共感を、ゆっくり大切に次世代にバトンタッチしている。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchu Taishi ☆ Starー 伊豆にはいつ来られたのですか。ノブ 1980年です。目的はサーフィンですね。南伊豆に見晴亭というところがあって、そこに住んでいる友だちが、冬は暖かいしサーフィンができるから遊びに来ないかと誘ってくれたのがきっかけ。じゃあ行ってみようかという軽い気持ちでしたから。ー それまでは何をなさっていたのですか。ノブ 遊んでいましたね。いろんなところを旅して。80年に来る前はネパールに行っていました。ー 見晴亭というコミューンみたいなものがかつて南伊豆にあったという話を聞いていました。そこはいわばどういうところだったのですか。ノブ 平山さんというおじいちゃんがいて、その人が小屋を建てて、その小屋をみんなに貸してあげて。借りている人たちが内装なんかを自由にやって。旅から帰ってきた人とか、いろんな人が住んでいたんですね。見晴亭は石廊崎の手前にあったんですよ。そこはサーフィンのポイントでもあって。ー コテージは何軒くらい建っていたんですか。ノブ 多いときで10棟くらいあったんじゃないかな。ー 見晴亭は何年くらいに生まれたんですか。ノブ 70年代のはじめ。72年か73年頃だと思います。おじいちゃんの実家が民宿をしていたそうなんです。横浜の方で船大工をしていたんですけど南伊豆に戻ってきて、実家を継ぐのが嫌で、自分でコテージを建てて貸したのがはじまりだと聞いています。見晴亭をきっかけに南伊豆に来て、ヒッピー的な暮らしをしている人は少なくなかったと思いますよ。『人間家族』の編集部もありましたし、ラスタコミューンもありましたから。

自由な旅の相棒と見る 海からの景色。【武田仁志(SURFACE)】

武田仁志(SURFACE)カヤックで海に乗り出す。陸にいることが日常だとすれば、日常とはまったく違った光景がそこには広がっている。カヤックで日本一周したことで、日本の海の豊かさと伊豆の海の魅力を再確認したという。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchu Taishi ☆ Starー 伊豆に住みようになって、どのくらいになるのですか。武田 最初は西伊豆の松崎だったんですけど、2000年に来ました。松崎にカヤック屋があって、そこでカヤックを覚えたいからと居候のような形で住まわせてもらって。そこを独立して今いる弓ヶ浜に来てカヤックのガイドをはじめました。それが2005年のことです。ー カヤックの魅力ってどんなところにあるのですか。武田 山や川や海でキャンプをするのが好きなんです。カヤックって、いわばザックみたいなものなんですよね。荷物がいっぱい積めるので。いろんなところに旅したくて、カヤックをはじめたんです。伊豆に来る前はカナダに1年いたこともありました。ユーコンってでっかい川があるんですけど、そこを下ったりして。次は海に行きたいなって思って、日本に帰ってきて海に行きだしたんです。ー カヤックで日本一周もなさっているとか?武田 2002年と2003年の2年をかけているんですけど。冬の間は中断していて。最後に計算したら364日でした。1年に1日足りない。日本のいろんなところを見られたので本当にいい経験でした。時間とか体力的な部分とかを考えと、たぶん難しいんでしょうけど、もう一度挑戦したいなという気持ちも心のどこかには出てきていますね。ー 15年前とは違ったものが見えるんでしょうね。武田 同じ場所に同じ季節に行っても、同じ風は吹いていない。一周って言っても、たかだか一回ですよね。だから次に行けば、2倍以上の楽しみがあるんじゃないかなって。ー 川には川の楽しさがあり、海には海の楽しさがあると思います。武田さんの考える海の魅力とは?武田 一番は海から見る景色ですかね。日本って周りが全部海なんですよね。カヤックをやっているといろんなところに行っていろんな遊びができる。カヤックの場合、基本的に川は決まってしまうんです。上流から下流に行くしかない。しかも日本は距離が短いし、流れも速い。海外のように長く旅をするっていうのは難しいんです。けれど海はリミットがないんですね。日本を一周してもいいし3周してもいい。右に行くか左に行くか自分で決められる。漕いで行く先を自分で決められるんですね。

表裏一体?都市と自然の多拠点ライフ。【松岡俊介(ARIGATO FAKKYU)】

伊豆とは思えないうっそうとした森のなかに潜む山小屋と東京という世界有数の大都市。日常と非日常、弛緩と緊張、あるいは陽と陰。それぞれが違う効用を与え、未来をもたらしてくれるのかもしれない。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchu Taishi ☆ Starー 伊豆に引っ越したのは10年くらい前だということですが。松岡 生まれも暮らしもずっと東京で、東京の人間なんだけど、まだドリルが三宿にある時期に横須賀に引っ越したのね。遠い距離を移動して生きることにトライしてみようと。やってみたら、「これはいけるな」って実感して。そして結婚することになって、物件を探しているうちに見つけたのが、今住んでいるこの家で。ー ネットで見つけたってこと?松岡 そう。物件の紹介に変わったことが書いてあってね。「絶対に見に来るな」「行ったとしても周りの人と話すな」とか。ふたりでその家を探しに行ったわけですよ。住所が書いてあるけれど、まったく見つからない。たまたま通り掛かった郵便屋さんに付いて行って、やっと辿り着いて。ー 確かにこの先に家があんの?っていう細い道をずっと登ってきて、やっと家にたどり着いた。松岡 帰るときにはここだって決めていたね。自分の価値観で生きてきていて、数少ない「これ何? すげえ」っていう家であったわけで。当時は、仕事の時間を減らしているほうが、人間として偉いというか高尚だと思っていた。今でもそう思っていて、遊びながら仕事もうまくできている状態がハイだし、それを見せることでみんながある種の羨望の気持ちを抱くわけ。俺も誰かに対してそう感じだんだろうけどね。それをやりたいっていう気持ちがつのってきて。

マクラメが もたらしてくれた結び。【麻太朗(大衆処いときち)】

麻太朗(大衆処いときち)鍵はおろか扉さえ閉じられることはほとんどない。常に人を迎え入れる「いときち」という大衆処。人と人、場所と人を結ぶ願いがその名前には込められている。下ろされていたシャッターを開けることによる活性化ビジョン。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchu Taishi ☆ Starー 伊豆に来たきっかけを教えてもらえませんか。麻 伊豆に来る前は茅ヶ崎に住んでいたんです。当時付き合っていた彼女がパーマカルチャーをやっていて、パーマカルチャーをやれる土地を探そうということになって。候補としてあがったのが北海道と南伊豆だったんです。3週間くらいの住み込みのバイトを見つけてこっちに来たんですね。来てみたら、すごいいい土地だなって思って。それで敷金礼金なしの月3万円の家を見つけて、すぐに越して来たんです。9年前のことです。ー 東日本大震災の前ってことですよね。そしてしばらくして大衆処いときちをオープンさせた。麻 『スペクテイター』が震災後に出したのが「これからの日本について語ろう」という特集号だったんです。そこで藤原辰史さんという東大講師の方が「未来のための公衆食堂」というようなことを書かれていて。この記事に感動しちゃって、閉まっているシャッターを開けちゃえばいいんだって単純に思ってしまって(笑)。ー それで物件を探して?麻 でも食堂はできないから、コミュニティスペースにするのがいいかなって考えて。なんかコミュニティスペースという横文字にするのも嫌で、日本語にしたら大衆処なのかなって思って。最初のコンセプトとしては「いらっしゃいませ」と言わないお店。お店には財布のなかを見てから入るじゃないですか。お茶一杯でもご飯でもTシャツ1枚でも。そういうお店ではなくて、入りやすい、風通しのいい店にしたかったんですよね。「こんにちは」って言える店にしたくて。ー それで本であったりレコードというものが浮かび上がってきたんですね。麻 本やレコードをきっかけに、共通の話題が作れたりするじゃないですか。その人の趣味が感じられるというか。だから本とか音楽っていうのは、それだけ大きな武器というか、人を結ぶきっかけになると思うんです。

移住第一世代から、未来につなげられる視線。【正司ベン(ケグラニアン)】

正司ベン(ケグラニアン)東京で働き続けることに疑問を感じ南伊豆に移住して30数年。ずっと新しい移住者たちを迎え入れ、南伊豆で暮らすことの豊かさを自分のライフスタイルによって伝えてきた。その暖かい視線は、今も移住者たちの大きな支えになっている。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchu Taishi ☆ Starー 最初に南伊豆に来たきっかけはどういうものだったのですか。ベン 東京でステンドグラスの工房をしていたんですね。めちゃくちゃ忙しくて、徹夜が何日も続く、そんな感じで仕事をしていたんです。 5年後10年後を想像したら、この生活は続けられないと思うようになって。田舎に行って自分のペースで仕事をしたいという気持ちがだんだん大きくなっていったんです。そして長野、三浦半島、東京でも檜原村とか、あちこち探して。どういうわけか南伊豆に来ちゃったんです。ー それは何年くらいのことだったのですか。ベン 82年か83年か。見晴亭もあって、見晴亭には友だちがいたからちょこちょこ遊びに行っていました。移住者は少なかったですね。本当にカントリーでおしゃれなお店なんて全然ないし。見晴亭にいた連中も含め、ごく少数の移住者たちがそれぞれの家に行って、今日はこっちで飲んで、明日はあっちで飲んでっていう感じでしたよ。ー ヒッピー的な人も多かったのですか。ベン コミューン暮らしをしている奴らもいましたからね。80年代後半になると反原発の運動も広がっていって。下田や南伊豆では何度も集会が行われていたんです。その流れもあって、88年の〈いのちの祭り〉に行こうっていうのが、このあたりにはゴロゴロいたんです。

生きる目的を 見つけるための場所。【出路雅明(human forum)インタビュー】

出路雅明(human forum)持続可能なライフスタイルを目指して立ち上がったmumokuteki。カフェ、ファーム、マルシェ、そしてファッション。さまざまなコンテンツには同じ核が存在している。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 林 大輔 photo = Daisuke Hayashiー mumokutekiという名前について、まずお聞きしたいと思います。出路 自分の好きな兄貴分が、三重で無目的ホールっていうものをやっていたんです。多目的ホールはあるけれど無目的ホールってないねってやってはったんです。月に1回か2回、日本中からおもしろい人を集めて、コミュニティみたいな感じでイベントをやっていて。スピリチュアル系とかが多かったかな。京都にあるフューマンフォーラムの3階のスペースが余っていたから同じ名前ではじめたんです。だからmumokuteki cafeやブランドのmumokutekiよりも、ホールがはじまり。カフェをmumokutekiに変えた頃に農業もはじめて。ー それが京北にあるファームなのですね。出路 若い頃、自分たちのコミュニティみたいなものの新しい形を作れたらいいなあっていう話をよくしていたんです。農業も含んだコミュニティ。10年くらい前に会社がつぶれそうになった時代があったんですね。そのときにもう一度頑張って、儲かったらアホな夢を実現させようということを社員に言って。そのひとつが「村」を作ることだったんですね。 DASH村も流行っていたし、そんなん作ったら楽しいし、研修施設にもできるし。それで京北にたまたま場所を見つけて。ー mumokutekiの目的とはどういうものなのですか。出路 確かにあまりにも気になる名前やと思います。なんで「無目的なんですか」ってよく聞かれる。そのときの答える手段として、じゃあ生きる目的ってなんですか、と聞き返す。その答えが見つかっていない人が多いと思います。あるのかどうかもわからないし、生きるって本当になんだろうと考えてみて、みんなで見つけて行こうっていうことなんですよ。mumokutekiビル自身のコンセプトが食べること、着ること、作ることも全部を受け取ってもらうこと。マルシェをはじめホールで開催していることからいろんなことを知ることも含め、こんな生き方もあるねっていうことを考えてもらうことなんですよ。mumokutekiも、このビル全体も、コミュニティにしたかったんです。東京にほびっと村ってあるじゃないですか。イメージとしてはあそこ。カフェがあって託児所があって本があって。コミュニティを作ることが、これからのビジネスの方向性だろうなと思っていて。量を売るとか多くのお客さんに来てもらうのではなく、ひとりのお客さんに長い期間にわたって愛してもらって買っていただくこと。ー そのひとつがファームの存在であり、定期的に開催されているマルシェであり、カフェでの食材に対するこだわりであり。出路さんはmumokutekiでどんなことを目指していらっしゃるのですか。出路 十数年前に、一緒に働いているメンバーのうちで、うつになる奴と辞める奴が出てきたんですね。ヒューマンフォーラムっていう会社名なんだけど、素晴らしき仲間の集いを目的にしているのに、これはちょっとあかんなって思って。年齢を重ねても働けるブランドを作ったらどう買っていうんで生まれたもののひとつがmumokutekiなんです。自分が一番したいのは生きていくための心と腕を育てること。ー 人間力を養うということですか。出路 まさにそう。腕と心ができたら、そこから先は自由にやってもらったらいい。土台とインフラを作ってあげること。これからの商売で何が一番売れるのかっていったら、やっぱり生き方やと思います。働く連中とともにお客さんも一緒に生き方を作っていく。ー その生き方のひとつが都市と田舎を結ぶことなのかもしれないですね。京都以外にも、いろんな場所で計画が進んでいるとお聞きしましたが。出路 京都では少しは生き方、働き方を作られています。けれどそれだけだったら、京都に来なあかんじゃないですか。だから九州でも名古屋でも東京でもどこでもいいんです。自分のやりたいと思う場所でやればいい。農業じゃなくてもいいし、例えば漁業だっていいでしょうし。田舎と街じゃなくても、街のなかにいろいろな形の働き方を作るっていうこともできますよね。ー 生きていく腕、そして心を育てていくことが大切なんだということがよくわかります。出路 仕事を教えて、人生を教えて、なんで金を払わなあかんねんって言ってんのが好きなんです。そう死ぬまで言っていたいです。会社を辞めようが辞めまいが、どこでどう活躍しようが、のんびり生きていようがどうでもいいんですけど、出路さんのおかげですと言って、たまに飲みに来てくれる奴がいたらいいですよね。