Yusuke Chiba

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マクラメが もたらしてくれた結び。【麻太朗(大衆処いときち)】

麻太朗(大衆処いときち)鍵はおろか扉さえ閉じられることはほとんどない。常に人を迎え入れる「いときち」という大衆処。人と人、場所と人を結ぶ願いがその名前には込められている。下ろされていたシャッターを開けることによる活性化ビジョン。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchu Taishi ☆ Starー 伊豆に来たきっかけを教えてもらえませんか。麻 伊豆に来る前は茅ヶ崎に住んでいたんです。当時付き合っていた彼女がパーマカルチャーをやっていて、パーマカルチャーをやれる土地を探そうということになって。候補としてあがったのが北海道と南伊豆だったんです。3週間くらいの住み込みのバイトを見つけてこっちに来たんですね。来てみたら、すごいいい土地だなって思って。それで敷金礼金なしの月3万円の家を見つけて、すぐに越して来たんです。9年前のことです。ー 東日本大震災の前ってことですよね。そしてしばらくして大衆処いときちをオープンさせた。麻 『スペクテイター』が震災後に出したのが「これからの日本について語ろう」という特集号だったんです。そこで藤原辰史さんという東大講師の方が「未来のための公衆食堂」というようなことを書かれていて。この記事に感動しちゃって、閉まっているシャッターを開けちゃえばいいんだって単純に思ってしまって(笑)。ー それで物件を探して?麻 でも食堂はできないから、コミュニティスペースにするのがいいかなって考えて。なんかコミュニティスペースという横文字にするのも嫌で、日本語にしたら大衆処なのかなって思って。最初のコンセプトとしては「いらっしゃいませ」と言わないお店。お店には財布のなかを見てから入るじゃないですか。お茶一杯でもご飯でもTシャツ1枚でも。そういうお店ではなくて、入りやすい、風通しのいい店にしたかったんですよね。「こんにちは」って言える店にしたくて。ー それで本であったりレコードというものが浮かび上がってきたんですね。麻 本やレコードをきっかけに、共通の話題が作れたりするじゃないですか。その人の趣味が感じられるというか。だから本とか音楽っていうのは、それだけ大きな武器というか、人を結ぶきっかけになると思うんです。

移住第一世代から、未来につなげられる視線。【正司ベン(ケグラニアン)】

正司ベン(ケグラニアン)東京で働き続けることに疑問を感じ南伊豆に移住して30数年。ずっと新しい移住者たちを迎え入れ、南伊豆で暮らすことの豊かさを自分のライフスタイルによって伝えてきた。その暖かい視線は、今も移住者たちの大きな支えになっている。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchu Taishi ☆ Starー 最初に南伊豆に来たきっかけはどういうものだったのですか。ベン 東京でステンドグラスの工房をしていたんですね。めちゃくちゃ忙しくて、徹夜が何日も続く、そんな感じで仕事をしていたんです。 5年後10年後を想像したら、この生活は続けられないと思うようになって。田舎に行って自分のペースで仕事をしたいという気持ちがだんだん大きくなっていったんです。そして長野、三浦半島、東京でも檜原村とか、あちこち探して。どういうわけか南伊豆に来ちゃったんです。ー それは何年くらいのことだったのですか。ベン 82年か83年か。見晴亭もあって、見晴亭には友だちがいたからちょこちょこ遊びに行っていました。移住者は少なかったですね。本当にカントリーでおしゃれなお店なんて全然ないし。見晴亭にいた連中も含め、ごく少数の移住者たちがそれぞれの家に行って、今日はこっちで飲んで、明日はあっちで飲んでっていう感じでしたよ。ー ヒッピー的な人も多かったのですか。ベン コミューン暮らしをしている奴らもいましたからね。80年代後半になると反原発の運動も広がっていって。下田や南伊豆では何度も集会が行われていたんです。その流れもあって、88年の〈いのちの祭り〉に行こうっていうのが、このあたりにはゴロゴロいたんです。

生きる目的を 見つけるための場所。【出路雅明(human forum)インタビュー】

出路雅明(human forum)持続可能なライフスタイルを目指して立ち上がったmumokuteki。カフェ、ファーム、マルシェ、そしてファッション。さまざまなコンテンツには同じ核が存在している。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 林 大輔 photo = Daisuke Hayashiー mumokutekiという名前について、まずお聞きしたいと思います。出路 自分の好きな兄貴分が、三重で無目的ホールっていうものをやっていたんです。多目的ホールはあるけれど無目的ホールってないねってやってはったんです。月に1回か2回、日本中からおもしろい人を集めて、コミュニティみたいな感じでイベントをやっていて。スピリチュアル系とかが多かったかな。京都にあるフューマンフォーラムの3階のスペースが余っていたから同じ名前ではじめたんです。だからmumokuteki cafeやブランドのmumokutekiよりも、ホールがはじまり。カフェをmumokutekiに変えた頃に農業もはじめて。ー それが京北にあるファームなのですね。出路 若い頃、自分たちのコミュニティみたいなものの新しい形を作れたらいいなあっていう話をよくしていたんです。農業も含んだコミュニティ。10年くらい前に会社がつぶれそうになった時代があったんですね。そのときにもう一度頑張って、儲かったらアホな夢を実現させようということを社員に言って。そのひとつが「村」を作ることだったんですね。 DASH村も流行っていたし、そんなん作ったら楽しいし、研修施設にもできるし。それで京北にたまたま場所を見つけて。ー mumokutekiの目的とはどういうものなのですか。出路 確かにあまりにも気になる名前やと思います。なんで「無目的なんですか」ってよく聞かれる。そのときの答える手段として、じゃあ生きる目的ってなんですか、と聞き返す。その答えが見つかっていない人が多いと思います。あるのかどうかもわからないし、生きるって本当になんだろうと考えてみて、みんなで見つけて行こうっていうことなんですよ。mumokutekiビル自身のコンセプトが食べること、着ること、作ることも全部を受け取ってもらうこと。マルシェをはじめホールで開催していることからいろんなことを知ることも含め、こんな生き方もあるねっていうことを考えてもらうことなんですよ。mumokutekiも、このビル全体も、コミュニティにしたかったんです。東京にほびっと村ってあるじゃないですか。イメージとしてはあそこ。カフェがあって託児所があって本があって。コミュニティを作ることが、これからのビジネスの方向性だろうなと思っていて。量を売るとか多くのお客さんに来てもらうのではなく、ひとりのお客さんに長い期間にわたって愛してもらって買っていただくこと。ー そのひとつがファームの存在であり、定期的に開催されているマルシェであり、カフェでの食材に対するこだわりであり。出路さんはmumokutekiでどんなことを目指していらっしゃるのですか。出路 十数年前に、一緒に働いているメンバーのうちで、うつになる奴と辞める奴が出てきたんですね。ヒューマンフォーラムっていう会社名なんだけど、素晴らしき仲間の集いを目的にしているのに、これはちょっとあかんなって思って。年齢を重ねても働けるブランドを作ったらどう買っていうんで生まれたもののひとつがmumokutekiなんです。自分が一番したいのは生きていくための心と腕を育てること。ー 人間力を養うということですか。出路 まさにそう。腕と心ができたら、そこから先は自由にやってもらったらいい。土台とインフラを作ってあげること。これからの商売で何が一番売れるのかっていったら、やっぱり生き方やと思います。働く連中とともにお客さんも一緒に生き方を作っていく。ー その生き方のひとつが都市と田舎を結ぶことなのかもしれないですね。京都以外にも、いろんな場所で計画が進んでいるとお聞きしましたが。出路 京都では少しは生き方、働き方を作られています。けれどそれだけだったら、京都に来なあかんじゃないですか。だから九州でも名古屋でも東京でもどこでもいいんです。自分のやりたいと思う場所でやればいい。農業じゃなくてもいいし、例えば漁業だっていいでしょうし。田舎と街じゃなくても、街のなかにいろいろな形の働き方を作るっていうこともできますよね。ー 生きていく腕、そして心を育てていくことが大切なんだということがよくわかります。出路 仕事を教えて、人生を教えて、なんで金を払わなあかんねんって言ってんのが好きなんです。そう死ぬまで言っていたいです。会社を辞めようが辞めまいが、どこでどう活躍しようが、のんびり生きていようがどうでもいいんですけど、出路さんのおかげですと言って、たまに飲みに来てくれる奴がいたらいいですよね。

京都発の音楽による、新しい未来図の構築。【沖野 修也】

沖野 修也京都で音楽活動をスタートさせ、東日本大震災後に東京から京都にベースを移した沖野修也。京都にこだわりつつも、俯瞰した視線も持っている。世界基準でどう京都を自分で表現していくか。 京都の新たな未来図を描こうとしている。文 = 菊地 崇  text = Takashi Kikuchi写真 = 林 大輔  photo = Daisuke Hayashiー 沖野さんは大学時代まで京都で過ごしていらっしゃったということですが。沖野 京都で生まれて、大学も京都だったんですね。24歳のときに上京して。そして東日本大震災の直後に京都に戻ってきました。ー 東京に向かった大きな理由はどういったものだったのですか。沖野 東京に行く前は、すごく東京に対するコンプレックスがあったと思うんです。心の奥底にどうやったら東京に追いつけるかみたいな思いを抱えていた。やっぱり一度出ないことには、自分の実力も証明できないし、京都に何が足りないのかなっていうのもわからないなあと思って移ったんです。東京で暮らし海外で活動することで、京都の価値を再確認したんです。ー 離れることでわかることってあると思います。沖野 KYOTO JAZZ MASSIVEと名付けたときに、京都と付けたことが逆に不利になるんじゃないのかっていう不安もあったんです。けれど海外に行ったら、京都の存在は特別なんですよね。東京は、先端の都市としてニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリンと肩を並べる存在になっていました。僕のなかでは京都はそのちょっと下に位置していた。けれど京都の持っているミステリアス感に対する憧れが強いんですよ。京都のブランド力ってすごいなあって実感したこともありましたね。ー KYOTO JAZZ MASSIVEは、どんな思いを持って名付けたのですか。沖野 実は自分で付けたんじゃなくて、ジャイルス・ピーターソンっていうジャズのDJに名付けてもらったんです。ロンドンで彼のDJを見たことがあったんですけど、ジャイルスが来日して、日本で彼が回すのをはじめて見に行ったときにサインをねだったんです。彼はトーキング・ラウドというレーベルのローンチで来日していたんですね。会場にそのパンフレットがあったから、そのパンフレットにサインをお願いしたんです。そしたら「To KYOTO JAZZ MASSIVE」と書いてくれました。「KYOTO JAZZ MASSIVEってなに?」って聞いたら「君たちのことだよ」と。なんかカッコイイから名前にしていいって聞いたら、使っていいと。京都に対するシャイな気持ちが、外国人に付けてもらうことですごくステイタスを持てたような感覚になって。この名前にすることよって、あらためて京都から世界に発信することをやろうと決意したんです。ー 沖野さんにとって、ジャズとはどんな存在なのでしょうか。沖野 あらゆる音楽にジャズの影響はあると思う。僕にとってジャズとはクロスオーバーすること。異文化との交流だったり異国の交流だったり。ジャズ=黒人音楽って思っている人は多いんだけど、けっしてそうじゃなくて、ブラジルでもニューヨークでもロンドンでもパリでも東京でも京都でも、人種の違う人が言葉を使わずにコミュニケーションすることがジャズなんですよ。人によってはそれがアートかもしれないし。ー その意味では京都ならではのジャズを沖野さんは表現し続けていると言えるのかもしれないですね。沖野 京都人が作る今の京都のジャズっていうものを発表したいなあって思っているんです。それが京都の新しいイメージになればいいとも思うし。京都って、どこかマイペースなところがあるんです。マイペースはマイペースでいいんだけど、京都が潜在的に持っている可能性みたいなものを、市民レベルでもっとアピールしていいと思う。それは自分のことだけではなくて。京都って奥ゆかしいことが美徳とされていて、こんなんできんねんみたいなアピールはあまりしないんですよ。ー 東京に比べ、メディアが少ないということもアピール不足の一因かもしれないですね。沖野 うねりをひとつのムーブメントとして見せること。アートならアート、ファッションならファッション、クラブだったらクラブ、バンドだったらバンド。京都って人口も少ないから、それらが点在している感じ。京都くらいの都市のサイズだといろんなシーンをまとめてレイヤー的に見せないとシーンとかムーブメントとして見えないと思うんです。ー 大き過ぎる質問かもしれませんが、どんな京都になっていけばいいと思っていますか。沖野 京都はもっと発展する可能性があるんです。もちろん発展を目指さないという選択もある。まずは市民がもっと自覚的になるべき。それはビジネスとかアートだけではなく、例えば政治のことにしても。かつての京都は革新府政で、日本のなかでも先鋭的な都市でした。今ではすっかりコンサバティブになっている。京都って反骨精神を持っていると思うんですね。歴史のある都としてのプライドも持っている。京都の持っている潜在的な可能性を市民が意識して欲しいと思います。そして可能性を広げるために、異業種のクリエイターなり表現者が集まるプラットフォームを作ることも必要だと思っています。それはウェブマガジンかもしれないしシンポジウムかもしれないし、フェスかもしれない。そういう人的な交流があれば、もっと京都の持っているポテンシャルが顕在化される。そういう意味では、僕は今まで、ひとりで勝手にいろんなところでアクションをしてきましたけど、次の5年は人と人を結びつけたり、伝統と革新を結びつけたりしていきたいですね。僕も異業種の人とコラボすることによって、作品だったり商品を作っていく。音楽で言えば京都にも70年代はブルース、80年代はニューウェイブ、90年代はアシッドジャズと核があったんですね。じゃあ今はなんやねんって考えてみても思い浮かばない。ジャズなのかヒップホップなのかわからないですけど、京都からおもしろい音楽を、おもしろい文化を発信できたらいいなあと思います。

京北に根付き、つながりながら発信するコミュニティ。【KEIHOKU Style】

KEIHOKU Style伊藤拓(革工房Taku)、佐藤啓(里山デザイン)林業の町として知られてきた京北。自然との共生を求めて、京都市内だけではなく各地から移住者がやってきて、新しいコミュニティが形成されようとしている。その中心になっているのが KEIHOKU Style。地場のものを再生し、地域ともつながりながらの新しい暮らしのプラットフォームが構築される。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 林 大輔 photo = Daisuke Hayashiー 移住してきた人たちが中心となって、「KEIHOKU Style」という集団というかコミュニティというか、そんなものを作っていると聞きました。京北の暮らし方を伝えることを目的にしているのでしょうか。佐藤 地域の活性化を生み出すためのプラットフォームを作っているんです。それには移住してきた人たちの新しい感性も必要で、けれど移住してきたみなさんが行政や商工会といった地域の人たちとは、なかなか出会う場がない。行政、商工会といった地域の人、そして移住してきた人たちをつないで、みんなでやることのプラットフォームを構築していく。京北という場所をブランディングして、外部とのコミュニケーションを図っていくことを目的としているんです。ー おふたりはいつ移住してきたのですか。伊藤 自分の工房を立ち上げてしばらく関東にいたんですけど、いつか田舎で暮らしたいと思っていたこともあって、子どもの誕生と育児を機に京北に来たんです。5年くらい前のことです。京北の前は京都市内に1年半ほど暮らしていましたが、京都市内から車で1時間程の山間地域であり、ツーリングコースでもあって。病院などもあってバランスのいいところじゃないかなって思って。佐藤 1年半前に引っ越してきたんですけど、叔父が陶芸家でもともと京北に住んでいたんです。僕自身はずっと彫刻をやっていまして。京都の友だちに京北に住んでいると言っても、「どこ?」って聞き返されることも多いですね。注目されていない、手がつけられていない分、京北で新しい動きを作っていきやすいのかなっていう気がします。ー 京北のどんなところに魅力を感じているのでしょうか。佐藤 僕は自然がある場所のほうが感覚的に生きやすいので、周りに山があったり、近くに川があったりという自然環境に魅力を感じています。京北という場所自体が、季節を反映するんですよね。伊藤 四季のグラデーションが視覚でも肌でも感じられるのは、すごく豊かなことだなって思います。かつて街なかで住んでいるときには、お日さまの軌道だとか、日照時間なんてことは考えもしなかったけれど、ここに来たらあとどのくらいで日が沈むのかなとか考えるんですよ。それありきで畑の畝を作ったりして。土もあって水もある。ものづくりに関しても、すごくこの場所からいろんなものをもらっていると思います。ー それぞれこの地域ならではの材を使ったものづくりをしているとのことですが。佐藤 京北は鹿がある意味ではシンボルなんですね。人口が5千人に対して鹿は8千頭いると言われています。獣害もあって問題も多いんですけど、鹿は動物としてのスタイルも美しくて、見ていて絵になるんです。鹿と京北の木材を使って、人に買ってもらえるような何かが作れないかなと思ってデザインしたのが、鹿のウッドクラフトなんです。伊藤 分厚い革を使ってものづくりをしてきたんですけど、京北の鹿の革は特別に薄いんですね。僕からすると不得意な素材なんだけど、いろいろ試行錯誤して、これはこれで作れるものがあるなと思って。例えばキーホルダーだったりピアスだったり。ー KEIHOKU Styleという場所やつながりがあって、そういう作品も目にしてもらう機会も増えているわけですね。伊藤 移住してきた人間にとって、もともと馴染みのある場所に来たわけでもないので、そんな状況のなかで、例えば京北なら鹿の革に着目するとか、メッセージとしてパッケージしやすくなりますよね。それを発表できる場があるということがありがたいことです。自分ひとりで個展をやるとしたら膨大なエネルギーがいる。こういうベースがあって、デザイン力もあって、メディアとの関わりもあって、町としてもPRしてくれることもあるわけですから、やっていてとても気持ちが前向きになります。佐藤 京北で伊藤さんが鹿革で作品を作っているということにすごく意味があるんです。地域の材を使って地域に還元していく。本来日本の里山が持っていた循環していく自然との共生。行政が目指していることは、この地域に移住者を増やしたいというような根本のところでは、自分たちと近いものがあります。 KEIHOKU Styleのようなつなぎ方で、自分の持っているものを放り込んで、それぞれにリターンしていく。それが地域のためにやっていることであれば、誰も反対しないんです。誰かが中心になるのではなく、誰かが使いたいと思ったときに使えるプラットフォームを維持しておく。誰かがやるぞって手を挙げたときに、参加できる人がそこに加わっていくゆるいくくり。それがKEIHOKU Styleだと思います。ものづくりとかの技術だけではなく、それぞれの持っているネットワークも投入していく。今までとは違う生活、ライフスタイルを求めている人は多いと思います。都市型の生き方ではない、ヒッピー時代のようなすべて自給自足でまかなうというわけでもない。両方をバランスよくできるような生き方。京北で、田舎で暮らしてみたいと思う人のレールを敷いてあげること。それも大切なことだと思っています。

ライフコストを 下げる生き方。多拠点生活のススメ。【宮内 孝輔 (地球に宿借りJamHouse)】

旅のなかで、新しい住み方のひとつとして出会ったシェアハウス。京北と東京でJamHouseとうシェアハウスを営みつつ、新たにモバイルハウスで移動することも視野に入れている。自分の場所を複数持つことから導き出されるいくつものチャンネル。麻柄ドームの設営など、気になったことへのチャレンジがもたらしてくれる未来。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 林 大輔 photo = Daisuke Hayashiー 宮内さんは東京や京都でJamHouseというシェアハウスを営んでいます。最初にシェアハウスをスタートさせたのはいつだったのですか。宮内 東京でスタートさせたんです。2010年で東日本大震災の半年くらい前でした。多いときは6軒くらいあったんですよね。今は東京に2軒と京北だけなんですけど。当時、東京のJamHouseには旅で出会った仲間たちが入居していたんです。わりと自然派というか。だから原発事故があって、東京ではなく西へ向かいたいという人が多くなって、東京から京都へ橋渡しというか、流していたんです。東京でも京都でも、チャランケという居酒屋も一緒にやっていたんですけど、2015年に東京のチャランケが無くなって、一昨年に京都の店も閉めて京北に移住してきたんです。京北のJamHouseは、コミュニティのようなものになればと思っていて。田舎ということもあって、シェアハウスではなくゲストハウスのように海外からの方が多いですね。ー 京北に来たとき、どんな印象を持ちましたか。宮内 市内から1時間くらいでアクセスできるのに、日本昔話みたいな風景なんですよね。京北にいると農村部と町がすごく近いから、いろいろ実験できるんじゃないかなって思って。東京でやるとしたら、これほどのアクセスのところで、これほどの環境はないですから。ー 拠点として考えているのは東京?それとも京北?宮内 どこにも住んでいないけれど、どこでもがっつり住んでもいるみたいな(笑)。シェアハウスに住んでいると、持っているものってどんどん少なくなって身軽になっていくんです。これから日本では人口が減っていき、ますます空き家が増えていく。全国の過疎地域で移住支援が盛んに行われていますが、突き詰めると結果的に人の取り合いになってしまう。だから多拠点を推奨しているんです。社会が多拠点になっていく過程でモバイルハウスも絶対に絡んでくる。必ず来る未来のスタイルのために、今こうやって人体実験をしているような感じですね。ー 自分で作ったモバイルハウスで移動しているんですよね。宮内 東京で20代前半のふたりがSAMPOっていうモバイルハウスの会社をやっているんですけど、彼らに影響されて作ったんです。モバイルセルとハウスコアっていうコンセプトを持っている。ハウスコアっていうのはキッチンとかトイレ、お風呂といった水まわりとコミュニティスペース。モバイルセルが動く個室。これを組み合わせることが新しいスタイルになると。要はシェアハウスがハウスコアに当たるんです。個室は各々が自由に動けばいい。モバイルハウスは家じゃなくて部屋なんですよ。多拠点の点と点を結ぶのがモバイルハウス。ー 実際にやってみて、多拠点生活のメリットはどういったものですか。宮内 実感するのは各地でレア感が出ること。例えば東京で京都の暮らしの話をするとめっちゃ刺さるんです。逆に京都にいると東京の話は刺激的です。自分が多拠点になっていると、周りの人もそれに合わせてくれるというメリットもあります。すごく時間を有効的に使えるし、自分の役割も明確になる。あと東京と田舎のコントラストによって自分をリフレッシュできますし。人類が生まれてから、こんなに移動が簡単になったことはなかったんですよね。そしてこれからも地球規模でどんどん移動が激しくなっていく。移動すればするだけ出会いも増えるし、アイデアも増えると思います。人口が減ることや経済が縮小することを悲観的に考える方がかなりいるんですけど、移動が2倍になったり多拠点化が進んだら、別の解決策が導き出されると思うんですね。言葉で言っても誰も理解してくれないので、自分で切り開くしかないっすねみたいな、そんな気分なんですよ。ー 確かに経済優先の社会はもう先が見えているわけだし。宮内 所得を増やすことは難しいんですけど、ライフコストを下げることはけっこう可能なんですよね。シェアハウスに住んでみるっていうのもそのひとつなんだろうし。自由になる時間を作って、そのうえで次に何かをやったほうがいいよなって。ー 麻柄ドームも作っているんですよね。宮内 一昨年に屈斜路湖の近くにいる人に習いに行って。フラードームが原型にあるんですよね。釘を使っていなくて、工具もすごくシンプルなものでできるんです。ただ、木材の切り方がえげつないですけど(笑)。20種類600パーツくらいあって、それを組み合わせていくんです。昨年は10個くらい作りましたね。ー 自分のことを簡単に説明するための肩書きをつけるとしたら、どんなものになると思います?宮内 何かなあ。わからないですね。暮らし実感家? とりあえずやってみて、うまくいったものは表に出るだろうから、そうなったらみんな真似すりゃいいなって思っていますね。ー それこそシェアが根本にあるんですね。宮内 クローズして自分だけのものにすることって、何もないと思います。モバイルハウスも、麻柄ドームも、そして多拠点の自分の暮らしも。

都市のなかのオーガニック交差点。人から人へ伝えられていくライフスタイル。【mumokuteki marche】

mumokuteki marche偶数月の第3土曜日に、京都市の中心部で開催されているマルシェ。無農薬の野菜、クラフト、パン、スイーツ、化粧品…。ここに並んでいるものは、すべてがこだわりのあるもの。そのこだわりには共通して「シンクグローバリー・アクトローカリー」というビジョンが根底に流れているに違いない。ビルの3階ということもあって出店数が多いわけではないけれど、お客さんの滞在している時間は長い。そこにこのマルシェの意義が見えてくる。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 林 大輔 photo = Daisuke Hayashi アクセスのいい京都の中心部の寺町商店街。三条と四条を結ぶこのエリアにあるヒューマンフォーラムビルの3階でマルシェが開催されている。〈mumokutekiマルシェ〉だ。2017年の6月にスタートし、2カ月に1回のペースで開催が続けられている。6回目となったのが今年2月17日。「冬の終わりのご褒美」というタイトルが付けられた。 弘法市や天神市などに代表されるように、骨董市や手作り市、ガラクタ市など多彩な市が京都では古くから行われている。市はマルシェやマーケットへスタイルの変容や拡大をもたらしながら、今でも京都の暮らしのサイクルのなかにしっかりと存在しているのだろう。左京区につながりのある180ものインディペンデントなショップが出店する〈糺の森ワンダーマーケット〉などは、クラフト&オーガニックカルチャーの新しい流れとして注目を集めている。

伝統と革新と。セッションから生まれる音楽文化。【KYOTO SESSION TALK】

家口 成樹佐藤 元彦EIJIPON2DAICHI東日本大震災後、京都の音楽シーンも大きな変化があったという。移住したミュージシャンがもたらしてくれた新しい刺激。伝統のなかに刻まれてきた自由。古くからセッションという文化が継承されてきた京都で、東京では起こらない、音楽文化のひとつが熟成されつつある。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 林 大輔 photo = Daisuke Hayashi京都という街が持つ自由。ー 〈ボロフェスタ〉や〈京音〉など、京都では街を巻き込んだフェスやイベントが多いように思います。それだけ音楽が街に定着しているということなのでしょうか。京都に住んでいらっしゃるみなさんに、まずそのことからお聞きしたいと思います。EIJI 確かにひとつの街で、ブロックパーティーや街フェスがいくつもあるっていうのは京都くらいかもしれないですね。実際にミュージシャンの人口比率も多いと思いますね。佐藤 ミュージシャンやアーティストを含め、ものづくりをしている人が多いと思います。PON2 大学もたくさんあるので、学生で音楽をやっている人も多いっていうのがその理由のひとつだと思います。いっぽう、磔磔とか拾得とか古いライブハウスもあって、昔から続く独特の文化もあって。家口 大学が多いということはインテリも多い。そしてそこからドロップアウトした人も多いのも京都ならではなんだと思う。京大に入って、そこからドロップアウトしてしまった人ってけっこういますからね。EIJI 大学が多いことで若い世代の層は厚くなりますよね。京都にそのまま残る学生も多いと思うので、文化が積み重なっていっているんじゃないですか。DAICHI 僕は他の街に住んでことがないのでよくわからないのですけど、京都には周りのことを意識せずに、好きなことをずっとやっているところがあるんじゃないですかね。こういうふうになりたいとか売れたいとかじゃなくて、自由にみんなが自分のことをやっている。街の時間の流れ方がとてもゆっくりで、ゆっくりものをつくるにはいいところやなって思っていて。ー佐藤さんとEIJIさんは東日本大震災の直後に京都に引っ越してきました。そしてふたりとも京都で暮らし続けている。つまり京都での暮らしに満足しているっていうことですよね。佐藤 戻らなければならない理由がないんですよね。いろんな部分でストレスがないんです。音楽をするのでも、生活をするのでも。EIJI 逆にライブのために東京へ行くと、スピード感が違っていて、ここでは暮らすことは難しいとさえ感じてしまうことがあります。物事に対する考え方の根本にあるものが、東京に暮らす人と他の地域に暮らす人とは違っているんじゃないかなって。佐藤 モチベーションの置きどころみたいなものが、東京と京都では違う気がします。特に何か制作するとき、あまり焦ってものづくりをしないようになりました。何かに縛られて、そのスピード感のなかで作業を進めていくという感覚は、東京にいたときよりもだいぶ少なくなりました。良し悪しではなく、それが自分にも合っていたんだと思います。セッションが文化として残る特性。ー京都はミュージシャンにとって優しい街ですか?家口 住みやすい街ですよ。幅広く、おもしろいもの、楽しいものがたくさんあるし。EIJI 平日でも音楽イベントが当たり前に行われていますから。それがすごいなって思って。小バコが多いからか、みんなで夜を楽しむイベントが多いんです。気楽にセッションできる場があって、それが日常化している。音楽がみんなの日常にあるというか。佐藤 その文化には、最初はびっくりしましたね。家口 セッションができるっていうことのバックボーンには、ハコ代がかからないっていうことが大きいですね。吉田寮とか京大の西部講堂とかでずっと培われてきたセッション文化というものが京都には今もあるなって思っていて。気楽に食堂に行ってセッションしようぜみたいなノリがあって。それができる場所が、特に左京区にはいっぱいありますからね。EIJI かつては吉田寮でパーティーをやっていたんですよね?PON2 OUTPUTとかやっていましたね。SOFTも出ていました。DAICHI SHOCK-DOライブとかも、2000年前後はかなり盛り上がっていましたよね。当時は京大や周辺のミュージシャンたちが吉田寮に集まって、毎晩のように練習したりセッションしたりしてましたね。家口 今もやっているんですよ。学生の祭りなんやけど誘われてセッションしに行ったんです。食堂もまだやっていて。本日休演あたりのバンドのメンバーとかが、グレイトフル・デッドみたいな熱いことをやっているんですよ。めちゃおもしろかった。キセルとかくるりとか辻あやのとかSHOCK-DOから出て行ったアーティストは少なくなかったですから。PON2 好き勝手にできるっていうことが京都にはあって。それは今も確実に残っている。自分の好きなようにできることが京都の一番の魅力かなと思っていますね。EIJI この街では誰も否定しないし。好きなことを続けていける土壌がある。誰もが学生時代に持っていた目線をそのまま持ち続けていてもいいんだって感じさせてくれる街。可能性が残されている街なんだだと思います。DAICHI たまにはケツを叩いてくれる奴が現れるといいやけど(笑)。PON2 締め切りを自分たちで設定しなければならないんで。ここ数年、SOFTで新しい作品を出さんの?って聞かれたら、いつもレコーディングはしているっていう返事をしているような状態。その会話が5〜6年も続いているかもしれませんね(笑)。今年は結成25周年でもあり、新作を出そうと思っています。佐藤 移住組の感覚で話をすると、東京に住んでいるときにはなかなか出会えかったタイプの人と、一緒になるタイミングがよくあります。さらに若い世代から先輩まで、みんなが同じ目線で付き合うことができていて。あと土地柄、アーティストを含めて海外の人も多く来ますが、東京では大バコに出るようなアーティストもMetroやUrBAGUILDなどのコンパクトなハコに出演するので彼らとの距離感もすごく近くなるんですよね。アーティストも東京にいるときよりもすごくリラックスしているように感じます。そのおかげで僕自身、海外のアーティストとの共演や共作がおもしろいなと積極的に思うようになりましたし、実際そういったチャンスが身近にあると思います。こういう感覚は他の街ではなかなか持てないんじゃないかと思っています。DAICHI きっと街が持っているサイズ感もいいんですよね。ジャンルやフィールドが違っていたとしても、友だちの友だちくらいまでで収まってしまうようなつながり。僕らのような何をやっているのかわからないミュージシャンやアーティストだけではなく、おっさんがブラブラしていても日常の風景として違和感がないんですよ。佐藤 確かにあるかも(笑)。PON2 まだまだ先輩がいますしね。脈々と続いている。DAICHI 精神的に助かりますよ(笑)。EIJI 人に対して街が寛容なのかもしれないですね。家口 好きにさせてもらえるし、変わった奴も多いけど、変わった奴に対する免疫もみんな強く持っていて。振り幅がでかいことをみんなが目にしているから、自由にできる範囲も広い。世代もジャンルの幅としても、広い街だと思いますよ。

地域で培われた暮らしの智慧を学び 、都市と田舎を結ぶ農園。【mumokuteki farm】

mumokuteki farm廣海 緑朗佐々木 英雄宮本 亮太山口 二大今は京都市に合併された京北と福井県境に近い美山。豊かな自然が残されたこのふたつの場所で農園を続けるmumokutekiファーム。脱都市を目指すのではなく、地域社会と関わりを持ちながら都市と田舎を結ぶことを実践している農園だ。地球の時間を受け入れながら、土に触れることで感じられる食への視点は、これからの暮らしには必要なものだろう。mumokutekiファームでさまざまな挑戦が行われようとしている。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 林 大輔 photo = Daisuke Hayashi京北と美山のmumokutekiファームから。ーまずそれぞれがmumokutekiファームどのように関わって行ったのかをお聞きしたいと思います。佐々木 僕は去年の正月から。その前の4~5年くらいは、滋賀や京都でいろんなことをしながら生きていたんです。田舎で暮らしてみたいなっていう思いも心のなかにあって、そんなときに美山に行ってみないかというお話をいただいて、トントン拍子で進んでいきましたね。宮本 僕は社内脱サラと言われています(笑)。前は系列の若い女の子向けのファッションブランドのバイヤーを東京でしていました。バイヤーといっても、生産のために1ヶ月の半分くらいは中国に行って、物をバンバン作って作ってということをやっていたんですね。ありったけの消費を作ってきたのに、こんなに多くのものが本当にいるのかなって思うようになって。違う生活をしたいなと思うようになったんです。会社と辞めることを前提に話していたら、京都の田舎でファームを構築していく仕事もあるということを知って。それで自分にできることなら、やらせてくださいとお願いしたんです。美山に暮らしはじめたのは去年の9月からですね。山口 東京から9年前に京都市内に引っ越してきました。なんとなく、いつかこういう田舎で暮らしてみたいと思っていました。2年前、子どもが生まれたのをきっかけにあちこち探したんですけど、なかなかピンとくる家がなくて。そんなときに仕事で京北に来たら、京都市内から車で1時間くらいなのに、環境はいいし野菜も安い、空き家もある。地元の人にも子どもは大歓迎やでって言われて決めました。関東の感覚だと車で1時間っていうのは、それほどの距離じゃないんですね。こちらの人には遠くに行ったねと言われますけど(笑)。それでmumokutekiの施設の修繕などを手伝ううちに、いろいろなことに声をかけていただいて、深く関わるようになったのは去年の10月からです。ー mumokutekiファームが京北で「ヒューマンフォーラム村」としてスタートしたのが2007年でした。ヒューマンフォーラムの研修施設としての機能も有していたと聞きましたが。宮本 僕もかつては研修でここに来ていましたし、今も新人の研修をここでしています。農業体験をプログラムに入れた5日間の研修です。実質的には農業の経験値を上げるというよりも、人材育成を目的にしたものなので、夜は勉強会をして。佐々木 僕もたまに参加させてもらっていますけど、濃い時間ですよ。勉強会も1日にあったことをしっかり振り返って、思ったことを発表して。「褒める、指摘する、褒める」ということをしているんです。日に日に参加している子たちが成長しているのがわかります。農業としては、研修生が草刈りなどを手伝ってくれています。実際には美山と京北の農作業を数人でやっていますから、手伝ってもらわないと全然追いつかないという状況なんです。廣海 京北でやっている研修では、地元のおばあちゃんで草餅などを作る名人がおって、その人に草餅作りのワークショップをしてもらったりだとか。僕らは単純にワークショップを企画するだけではなくて、それを継承するような人が出てきてほしいと思っているんです。佐々木 草餅はまだ可能かもしれんけど、栃餅は本当に大変な作業で。山口 だから栃餅が道の駅なんかで売っていたら、迷わずに買ってしまう(笑)。手間を考えたら本当に安く感じますし、そういう失われつつある文化や伝統というものが田舎には残っていて。農家さんにとっては普通のことなんでしょうけど、柿を干して干し柿にするとか、大根を干してたくあんにするとか。誰もやらなくなってしまったら、無くなってしまう文化ですよ。米や野菜を作ることをしながら、そういうこともみんなで学んでいけたらと思っています。