Yusuke Chiba

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80年代から続く鼓童と佐渡(小木)の祭り。【洲崎 拓郎、菅野 敦司、上之山 博文|鼓童Production Notes】

太鼓の演奏などを中心とした芸能集団として、日本のみならず世界で公演を続けてきている鼓童。ベースとなる「鼓童村」を佐渡・小木に開村する際の村祭りとして、〈アース・セレブレーション〉がはじまった。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー まず御三方が鼓童に入ったきっかけから聞かせてください。菅野 82年に公演を見に行った際に、パンフレットに鼓童村構想が書かれていたんです。その文章を読んで、「ここしかない、自分はここだ」と。それで入れてくださいとお願いしたんです。ー 鼓童村構想のどんなところに魅かれたのですか。菅野 私はカウンターカルチャーみたいなものを探していたというか、そんな思いもあってカリフォルニアに留学していたんです。日本に帰ってきて、鼓童が日本におけるカウンターカルチャーだと感じたんですね。哲学を持って、佐渡という場所を自分たちの拠点として選んだ。ローカルという自分たちの足元を意識しながらも、インターナショナルな活動もしていく。そこにも魅力を感じて。前身の鬼太鼓座から鼓童になったばかりで、まだ何もない頃でしたから、ひとつひとつ新しいものを作っていくことを続けていたら、気がついたら現在に至っていたという。洲崎 私もパンフレットの文章なんです。たまたま見たNHKの番組で鼓童のことを知ったんですね。それが85年。当時は東京の高校生で、高校でブラスバンドでパーカッションをやっていたこともあって、太鼓に興味が生まれて、新宿での公演を見に行って。そのときのパンフレットに「鼓童村を作ろうとしている」とか「祭りをはじめようとしている」というようなことが書かれてありました。満員の電車通学にすごくくたびれていたし、田舎で暮らしたいという思いもありました。そして研修制度があることを知って、88年に研修生になりました。

自由は自分でつくるもの。【BEAUTIFUL PLANET(西林浩史)】

年代後半から新しいミレニアムに入った頃。日本にスケートボード・カルチャーを広めた大きな要因のひとつがシューズブランドの「IPATH(アイパス)」だった。そのカルチャーを再び魅力あるものに進化させるために「Beautiful Planet」が生まれた。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー2000年代初頭に、スケートボードシューズ・ブランドとして人気を集めたアイパス。日本でのアイパスの人気は、当時の輸入代理店だった西林さんの功績が大きかったと感じていました。シューズを売るだけではなく、カルチャーとして広めたというか。スケートボード・カルチャーとはどんな出会いだったのですか。西林 1992年にスノーボードなどを扱っている輸入会社を辞めた後、自分で輸入会社をはじめようとして、はじめてアメリカに行ったときに、街に溶け込む「カッコイイ」スケーターたちを見たときでした。ーアイパスとの関係はどのようにはじまったのですか。西林 99年4月。取り扱っていた、SUPERNAUT(スーパーナウト)というスケートボードブランドの日本ツアーで、アメリカのプロライダーであるマット・ロドリゲスとマット・ペイルズが来日した際に、彼らが履いていたのがアイパスシューズでした。この出会いがきっかけでアイパスを知り、99年秋の展示会でアイパス社のブースに行き、取引を申し込みました。話はすんなり進み、その場で日本の代理店として活動することが決まりました。ーツアーではどういうことをやっていたのですか。西林 基本的にはスケートボードショップに行って、お店の近くのスケートパークでデモンストレーションをして、ローカルのスケーター達との交流をしました。アイパスUSAライダーとのツアーは毎年行っていました。大都市だけでなく、北海道から沖縄まで、ほぼ全国をまわりました。ーそのツアーによって、アイパスが、スケートシューズ・ブランドとしてだけではなく、カルチャーとしても広がっていったのではないですか。西林 ツアーの影響は大きかったと思います。やはり、すべては出会ってからはじまるので。でも一番の理由は、カルチャーとして広がれる可能性がアイパスにあったということと、僕がアイパスをカルチャーの方向に進めて、それを「良い社会創り」へつなげたいという意志があったからだと思います。今になって振り返ると、99年って大きな変わり目の年だったんですね。ーそれはどういうところがですか。西林 アイパスが人気になった理由のひとつが、ヘンプ素材をスケートシューズに使用したことです。90年代前半に第1次ヘンプブームがマナスタッシュなどの「ヘンプアウトドア」を軸にはじまり、ヘンプ素材が注目されるようになりました。そして99年に誕生したアイパスがヘンプ素材をスケートボーダーたちに広め、第2次ヘンプブーム「ヘンプストリート」が広まって行きました。同じ年代に誕生した、サトリ、リビティもこの「ヘンプストリート」を創り出したブランドです。またスケートボードシューズ自体も、アイパスがきっかけで、ハイテク人気からローテクに変わりました。

半世紀も続けられた感謝を伝える時間。【春一番(福岡嵐)】

1971年にはじまった〈春一番〉。中断はあったものの、半世紀以上にわたって続いてきた関西のみならず日本を代表する野外コンサートが今年5月で幕を降ろす。昭和、平成、令和。〈春一番〉の主催であり支柱だった福岡風太の息子・福岡嵐が、その決断をくだした。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー嵐さんの〈春一番〉の最初の思い出はいつになるのですか。嵐 1995年に復活したときですね。そのときは中学1年で、母に連れられていったのが最初の思い出です。〈春一番〉は71年にはじまって79年にいったん終わっています。僕は82年生まれだから、70年代の〈春一番〉は生まれていなかったですから。70年代を知らない世代なんです。ー父親であり〈春一番〉の主催を担っていた福岡風太さんが昨年6月にお亡くなりになりました。風太さんが続けてきた〈春一番〉のこと、そして風太さんのこと。息子さんである嵐さんはどう思っていたのか。今回の取材はそれをお聞きしたいと思ってのものです。嵐 2025年で〈春一番〉を終わりにします。「BE-IN LOVE-ROCK」とサブタイトルに付けているんですけど、これは福岡風太が、自分で手がけたはじめての野外コンサートにつけたタイトルなんです。50年以上の前のことなので、出演者が誰だったのかとかの記録があまり残っていないんですけど。ーどういうきっかけで風太さんはその野外コンサートをやろうと思ったのですか。嵐 ビートルズの映画上映と抱き合わせた野外コンサートだったそうです。この「BE-IN LOVE-ROCK」のほかに「感電祭」と「ロック合同葬儀」っていう3つの野外コンサートを70年にやって。その3つが翌71年に初開催される〈春一番〉の基盤になったというか。70年頃は、ひたすら野外コンサートやライブを作っていたみたいです。ーなぜロックコンサートだったのでしょうか。嵐 風太は69年にアメリカで開催された〈ウッドストック〉に憧れてたんですね。「60年代後半からの安保闘争で、自分は体制に向かって火炎瓶を投げている側だったけれど、これで何かが解決できるわけではない。平和を求めているのに、みんながケンカしちゃっている。それだったら音楽で平和を表現したい。仲間と一緒にコンサートを作って、〈ウッドストック〉のような平和の祭りをやりたい」。規模がどうのこうのじゃなくて、仲間と遊びたかった。自由でいたかったんだと思います。70年って、風太は22歳か23歳なんですよね。ーかなり若いですし、その年齢で野外イベントを立ち上げるってかなりの挑戦だったはず。嵐 みなさん若かったんですよね。とにかく仲間と遊びたかった。音楽で遊ぶ場が欲しかった。そのなかで「愛と平和」をどうやって表現しようかとずっと考えていたと思うんです。そのひとつが運営母体を会社にしないでフリーでい続けること。守るものをできる限り少なくすることが、自由でい続けられることだと。ーそして95年に復活して、コロナ禍での開催見送りはあったものの、今年まで継続しています。大阪のゴールデンウィークの風物詩と言ってもいいかもしれない。嵐 やっぱり続けるってすごいエライことですよね。お客さんが来てくれたし、〈春一番〉っていうコンサートを楽しみに来てくださる方がたくさんいましたから。ただ〈春一番〉は、知る人ぞ知るっていう存在ですよね。音楽が好きな人だったら、〈フジロック〉や〈サマソニ〉は知っているわけじゃないですか。〈春一番〉は決して有名ではないですから。ー95年に復活したのは、どんな理由からだったと思いますか。嵐 ちょうど30年前なんですよね。風太は94年に胃癌の手術をして、胃の4分の3を取っているんです。そして5月の開催を決めた後に阪神淡路大震災が起こった。仲間で集う場をもう一度作って、それを続けたいと思ったんじゃないですかね。ー嵐さんは95年以降、ずっと〈春一番〉に参加していた?嵐 95年と96年だけ。生まれは名古屋なんですけど、小学校から東京でしたから。中学高校とずっとサッカー部だったんです。ゴールデンウィークって大切な試合があるんですよ。バンドもやってましたから、部活とバンドが自分の世界でした。僕には僕の好きな音楽もあったし。ー確かに〈春一番〉は中学生が好むラインナップではないでしょうから。嵐 音楽って自分で選んでいくものじゃないですか。当時はミッシェル・ガン・エレファントなんかが好きでしたから。もちろん〈春一番〉が横にあるから音楽の幅は広がっていきましたけど。

声で聞く詩と文字で読む詩。【ナナオサカキを語る Dialogue 2 - 向坂くじら × ikoma(胎動LABEL)】

ナナオサカキの詩を読む。ナナオサカキの詩を聞く。自分の周りから宇宙へ。そしてまた自分のもとへ。 そんな旅に誘ってくれる詩への畏敬と拒否。ヒッピー的な生き方に疑いを持ってしまう世代の社会と自分の関係性。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 須古 恵 photo = Meg Sukoー まずふたりの出会いというか、関係を聞かせてください。ikoma 胎動LABELというレーベルを主宰していて、ポエトリー・リーディングなどのイベントを運営しています。彼女が大学生時代に、詩人として活動している場でたまたま出会って。自分のイベントに出てもらって。それから7〜8年くらいになるかな。くじら 自分の表現のはじまりは、詩の朗読でした。ひとりでの朗読とは別に、ギタリストと一緒にアンチトレンチというユニットを組んでいて、胎動LABELのイベントにも出演させてもらっていました。ikoma くじらは30代になった?くじら 今年でちょうど30歳になりました。ikoma 俺は40代になって、ちょうど10歳くらいの違いがある。アレン・ギンズバーグやゲイリー・スナイダーといったビートニクから直撃された日本の詩人は俺よりも年上の世代だけど、くじらはその世代の人たちとも活動を一緒にすることも多いよね。くじら 選んでいるみたいな気持ちは全然ないんですけど、仲良くなったり、かっこいいなと思う人は、どこかでその系譜に関する人だったりというのが多いと思います。ikoma ビートニクの詩人たちの登場によって、ポエトリー・リーディングは行われるようになった。日本で若い世代でポエトリー・リーディングをやっている人もいるけど、ビートニクや、今日の主題であるナナオサカキさんや長沢哲夫さんといったヒッピー世代の人たちの詩に、触れていない人も多いように思っていて。くじら 少なくとも、私は世代的には全然違いますね。アレン・ギンズバーグは、自分がポエトリー・リーディングをはじめた後になって知って。古本で買って、読んでみたらすごくかっこよかった。ikoma 大学時代に触れてはいたんだね。くじら 触れたっていう程度。アレン・ギンズバーグの詩はすごく好きで、元気がないときに、家でひとりで「吠える」を朗読すると、すごく元気になる(笑)。ikoma ギリギリ、くじらがビートの流れの一番下につながっている気がしなくもない。本人が「私はビート詩から来てます」って口にすることはないだろうけど。くじら 劇団どくんごという劇団がありまして、そのどくんごの10年来のファンなんです。詩を書きはじめる前からどくんごを見ていて。自分が身体を使ってパフォーマンスする、声を使ってパフォーマンスする、自分の書いた言葉を持って人前に立つっていうことの前提に何があったのかって考えると、どくんごなんですよ。ikoma そうなんだ。くじら トラックにテントを積み込んで、全国各地に移動して、テントを張って、劇をする。劇の旅。助成金をもらうわけでもなく、全国に支援者がいる。何かをするときに、どくんご的じゃなきゃいけない、みたいな思いがちょっとあるんです。国とか、大きなものに頼らずに自分たちの表現の場を作っていくとか、社会のなかでの暮らしの方法を作っていくとか。表現することによっていろんな人と出会って、旅をしていく。友達同士の関係でも、利益だけではないつながりを作っていくことに対しての尊敬する心など、どくんごから培われていることが多いんです。ikoma ある種のカウンター的な資質がそこにあるという。くじらにとって、詩を書くこと、詩を朗読することって、実はカウンター・カルチャー的な部分もある?くじら 普通に、一生懸命生きていこうとすると、必然カウンターになってしまう。私が世界を押し返しているのではなく、まず世界が私を押し返すことからはじまっていて、その押し返された先で生きていくことがカウンターなら、カウンターなんでしょうね。ー ふたりがナナオサカキの詩に出会ったのは?くじら 埼玉県の桶川でナーガ(長沢哲夫)さんが出る詩のイベントがあって。そのときに、桶川に住んでいる詩人の新納新之助さんが、ナナオさんの詩をカバーしていたんです。ikoma きっかけは、いとうせいこう is the poetsのライブでせいこうさんがナナオさんの詩を引用していた。「このかっこいい詩はなんなんだ」と思って。いつまでも通じる詩というか。誰がカバーしても、その言葉が持っている魔力というかエネルギーみたいなものが伝わってくる。くじら ナナオさんの「ラブレター」をナーガさんのカバーで聞いたときは、人間という存在があって、それが社会的でも物理的でもあるっていうことを、確か谷川俊太郎さんが書いていたんですけど、それを実感して。ナナオさんの詩は、社会的な存在としての自分をいきなり飛ばして、宇宙にぶつけてしまう感じ。宇宙的な存在としての自分っていうところに、

自由な詩が生まれる起因。【ナナオサカキを語る Dialogue 1 - 長沢哲夫(ナーガ) × いとうせいこう】

10代の頃に新宿・風月堂でナナオサカキと出会い、 一緒に旅に出てもいた長沢哲夫。ナナオサカキの詩を、今も自身のライブで音源にのせて読むいとうせいこう。旅と詩とナナオサカキを巡るふたりの対談。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 北村勇祐 photo = Yusuke Kitamuraいとう ナナオサカキさんのことをお話していただく前に、まずはナーガ(長沢哲夫)さんのことをお聞きします。どちらの生まれですか。長沢 東京の新宿区です。早稲田大の近く。戦争中は岩手に疎開していましたが。いとう 岩手に疎開なさっていて、終戦後に東京に戻ってきた?長沢 小学校に入るので帰ってきたんです。6歳か7歳か。いとう どんな子どもだったのですか。本をよく読むとか、いたずら好きとか。長沢 遊びまくる子でしたね。いとう そして大学に行った?長沢 いや、大学には行っていない。いとう じゃあ、何をなさっていたのですか。働いていらしたのですか。それともフラフラしていた?長沢 結局、風月堂にはよく行ってましたね。いとう 新宿とお聞きして、風月堂が出てくると思ったんです。当時は風月堂に行くような流れってあったのですか。長沢 そういうものじゃないんだけど。中学で知り合った友だちのおじさんが、よく風月堂に行っていた。たまたまなんかね、行ってみないかって誘われて。彼と一緒に行ったのがはじまりで。いとう 中学生で風月堂デビューですか。すごいですね。ハイミナールを飲んでグズグズになっていた人もいたという話を聞きますけど。長沢 ぼくが行ってた頃は、そういうのは全然なくて。とにかくクラシックを聴きたい人が行くお店。ぼくは読書しながら音楽を聴いていましたね。いとう その本は買ってきたものだったのですか。それとも借りてきたもの?長沢 借りてくることもあったね。国会図書館に行ったり、インド大使館の図書館に行ったり。高校を中退してすぐの頃。いとう インド大使館の図書館で借りたものはサンスクリット語?長沢 いやいや英語の本。なんとか辞書をひきながらね。サンスクリット語の本はなかったね。いとう すごい。詩もあったのですか。長沢 読んでいたインドの本は、詩に含まれるんだろうね。長い詩。そもそも漢詩が好きでね。風月堂で読んでいたのは、まず漢詩だったね。それからインドの詩にはまり込んで。その後、ランボーの詩に出会いました。いとう やっぱり詩なんですね。詩の一番の入口はどこだったんですか。中学生くらいに「詩がおもしろい」ってなったわけじゃないですか。しかも和歌ではなく漢詩からという。長沢 ちょっと読んだら気に入っちゃった。いとう 友だちは理解してくれたんですか。長沢 同世代の友だちはいなかったから。いとう それで風月堂で仲間というか友だちを見つけたってことですよね。ナナオさんとか。長沢 ぼくみたいに、毎日のように来る人たちがけっこういたんだよね。話すわけでもないのだけど、いつの間にか友だちになっていた。ナナオの出会いもそんな感じだったよ。ナナオとナナオの友人の彫刻家が個展をやっていて、それに来ないかって声をかけられたのが、ナナオと話すようになったはじまり。個展では大きな字でガーッと書かれた詩が掲げられていた。いとう 詩と彫刻って、先端のミクスドメディアですね。その頃はナーガさんは10代?長沢 17歳か18歳。いとう すごい早熟ですね。ナナオさんは何歳くらいだったのですか。長沢 ずっと上ですよ。30歳以上だったね。いとう ナナオさんは詩を書く、ナーガさんは詩を読む。当時の風月堂周りには、他に詩を書いたり、読んだりする人がいたのですか。長沢 いたんだろうけど、ぼくは出会わなかったね。。会ったのはポン(山田塊也)とか山尾三省とか。いとう 60年代の新宿文化圏と言えるものがそこにあったのですね。そして日本のヒッピーが生まれていった。長沢 ぼくらはヒッピーという名前は使っていなくて。けっこうな人数の知り合いができて、ときどき集まっていろんなことをやっていたから、ナナオが「自分たちのことを何と呼ぼうかね」ということを提案してきた。そしてナナオが言い出したのが「バム・アカデミー」。乞食学会。それでいいだろうっていうことになって。いとう ヒッピーとは違う?長沢 ヒッピーのことを語るのならゲイリー・スナイダーのことを出さなきゃいけない。ゲイリーはそもそもがビート。風月堂で知り合ったオーストラリア人が、京都でインド帰りのゲイリーと一緒になったらしいんですね。ナナオのところに連絡が来て、京都にこういうおもしろいアメリカ人がいるから会いに行けと。いとう 有名な一幕ですよね。長沢 ナナオと僕のふたりで行って。ちょうどアレン・ギンズバーグもインドから帰って来たばかりで、ゲイリーのところにいた。いとう ビートの二大巨頭に会っちゃったわけですね。長沢 そう。それでゲイリーがアメリアに戻ってから、ビート関係のもの、本とか雑誌とかをいろいろ送ってきてくれた。いとう その後もゲイリー・スナイダーとかアレン・ギンズバーグとか、ビートの人たちに会う機会はあったのですか。長沢 ゲイリーとは会ったけど、アレンはそのときだけ。ナナオはアメリカでアレンと会っているけどね。ゲイリーがナナオをアメリカに呼んだから。いとう ナナオさんをアメリカまで呼ぶ。ナナオさんの、どこに魅力というか、力を感じたんだと思いますか。長沢 どうだろう。ナナオが愛される自由人だったということじゃないかな。

民謡という手つかずの源泉。【田中克海 民謡クルセイダーズ】

多くの人が耳にしたことがあり、口ずさめる「民謡」。多くの人の心に宿っている歌を、ラテン・リズムに融合させて21世紀に再生させる。唯一無二のシン民謡は、日本だけではなく世界に伝播されている。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真(ポートレート) = 須古 恵 photo(portrait) = Meg Sukoー 田中さんは、いつから福生の米軍ハウスにいるのですか。 20年くらいになります。はっぴいえんどとか聴いていましたが、音楽と福生がリンクしていなくて。当時は雰囲気がいい街って聞いて、遊びに来た。今と違って、もっと米軍ハウスが多かったんですよね。知人が米軍ハウスに住んでいて、入ってみたら「ここ、ヤバい」ってなって。「ちょうど、斜め向かいの家が、明日空くみたいだけど」と教えてくれて。で、次の日に見にいったら、借りていたお兄さんが不動産屋さんに鍵を返すところだったんですよ。その場で「すいません、僕、ここを借りたいんです」って仮押さえして。ー それが、今もいる「バナナハウス」? そうです。ー 20年前に来た頃も音楽はやっていたのですか。 音楽は趣味みたいな感じでしたね。リズム&ブルースとか黒人音楽が好きだったんで、仲間とパーティーバンドみたいなものを組んで。高円寺とか中央線界隈のDJイベントに呼んでもらったりしてましたね。ー 民謡クルセイダーズはどんなきっかけで生まれたのですか。 福生に引っ越してから、横のつながりがだんだんできていったんですね。老舗ライブハウスのチキンシャックとかバンド文化もあるし、イベントや週末のパーティーが盛んでライブしたり、デザインの仕事をもらったり。そんななかで東日本大震災があって、考え方が変化していきました。それまでは自分自身とだけ向かい合っていたことが、福生でコミュニティとか横のつながりが増えてきて生活と活動の拠点ができたことで、クリエイティブにしろ何にしろ、すべてが紐づいて地域に根ざしたことができないかって思いはじめたんですよ。よりそこの土地に根ざした、住んでいる場所に自分ができることで貢献できるとか、地域と絡んだ活動をしたいなってなんとなく思って。そんなときにフレディ(塚本)さんの存在を思い出したんです。ー 民謡歌手としてのフレディさんを思い浮かべた? フレディさんとの出会いは、民謡歌手ではなくジャズやソウルのボーカルとしてもライブをしていて、それを見て「すごいうまい人だ」って思っていたんです。飲み屋とかイベントでたまに顔を合わせていて。ルーツ音楽が好きで、いろんな国の古い音楽を「いいな、いいな」ってあさっていたにも関わらず、自分の国の音楽には一切アプローチさえしていないっていうことに疑問を抱いて。なんでだろうって思いつつ、民謡をちょっと聞いてみようかってなって。そしたら美空ひばりさんや江利チエミさんが民謡アルバムを出しているのを知って。「民謡ってダサい音楽として終わってる音楽」って勝手に思っていたけど、もっとヒップなものだったんじゃないかって思いはじめて。そういう切り口だったら、自分たちのルーツミュージックをできるかもしれないって思ったんですよ。そしてフレディさんに連絡を取って、民謡クルセイダーズの原型みたいなものができあがっていったんです。

地球に刺さる男の新たな航海。【sasaru kozee】

世界を旅する。その旅を記憶と記録に残るものとするために自らがプロデュースしたのが「SASARU」。Google Mapのピンをイメージして自分が大地に刺さる。その旅の様子はSNSで展開され、世界中に拡散されていった。写真(ポートレート) = 須古 恵 photo(portrait) = Meg Suko文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchiー 「地球に刺さる男」について聞かせてください。K ブレイクダンスをやっていたので、ブレイクダンスを通してヒップホップカルチャーに魅せられていったんですね。何も調べずにイメージだけで、「ブレイクダンスならニューヨークだろ」って思って。そして高校を卒業した年にニューヨークに行ったんです。ちょうど9・11のテロがあった年でした。ー 9・11はニューヨークで?K 9・11の後です。あの事件が起こったことで、エアチケットがめっちゃ安くなって(笑)。この金額だったら行けるって思って行ったんです。ー はじめて行ったニューヨークはどんな印象でしたか。K ブレイクダンスを毎日したかったんですよね。練習場所を探して。英語もまったく喋られなかったんですけど、ダンスのいいところは、動きで「この間も来ていたアイツだ」って覚えてもらって。ダンスから会話がはじまっていったんですね。僕は東京・原宿の出身で、日本のなかではグローバルな人たちと会える機会が多い地域で育ったんだけど、ニューヨークはその比じゃなくて。当時の僕が知らなかった国の人とも知り合う。「アフリカの○○っていう国の出身」って言われても、その国がわからない。けれどそいつには興味があるから、その国のことも興味を持つようになって。音楽と一緒ですよ。その国の音楽が好きになって、その国も好きになる。そしてせっかく仲良くなったヤツの国にいつか行ってみたいなって漠然と思うようになって。ー 確かに人から興味がはじまるっていうことも多いように思います。K ブレイクダンスの世界大会に出ることがダンスでの最終目標だったんですね。正確に言えば、その世界大会は1日目が予選で2日目が本戦で、その本戦に出ること。本戦に出てダンスの夢を叶えることができた。夢を達成して、次に何をやろうかなと思っていたときに、テレビの仕事をやらないかって声をかけてもらったんです。いわゆるADからのスタート。早い段階でディレクターの仕事をさせてもらって。旅番組を担当することになって、日本全国に行くことができたんです。いろんな場所に行ったら、日本もめっちゃおもしろいじゃんって思って。ー テレビの旅番組から、今度は自分が旅に行くことになった?K 「地球に刺さる男」の前に、輸入の仕事のオファーがあってオーストラリアに行ったんですね。ワーホリ(ワーキングホリデー)のビザを取って。行ったのが2011年の1月末。そしておよそ1ヶ月後に3・11があって、仕事がなくなってしまって。でもビザがあったから、そのままいたんです。オーストラリアにはダンスチームの仲間もいたし。あるとき、ダンサー仲間たちとポートスティーブンスって真っ白な砂が綺麗な鳥取砂丘みたいなエリアに行ったんですね。砂丘でアクロバット的な写真を撮っていて、誰もいない砂丘に僕だけが頭で突き刺さった写真がたまたま撮れたんです。意図せずに。