太鼓の演奏などを中心とした芸能集団として、日本のみならず世界で公演を続けてきている鼓童。ベースとなる「鼓童村」を佐渡・小木に開村する際の村祭りとして、〈アース・セレブレーション〉がはじまった。
文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchi
ー まず御三方が鼓童に入ったきっかけから聞かせてください。
菅野 82年に公演を見に行った際に、パンフレットに鼓童村構想が書かれていたんです。その文章を読んで、「ここしかない、自分はここだ」と。それで入れてくださいとお願いしたんです。
ー 鼓童村構想のどんなところに魅かれたのですか。
菅野 私はカウンターカルチャーみたいなものを探していたというか、そんな思いもあってカリフォルニアに留学していたんです。日本に帰ってきて、鼓童が日本におけるカウンターカルチャーだと感じたんですね。哲学を持って、佐渡という場所を自分たちの拠点として選んだ。ローカルという自分たちの足元を意識しながらも、インターナショナルな活動もしていく。そこにも魅力を感じて。前身の鬼太鼓座から鼓童になったばかりで、まだ何もない頃でしたから、ひとつひとつ新しいものを作っていくことを続けていたら、気がついたら現在に至っていたという。
洲崎 私もパンフレットの文章なんです。たまたま見たNHKの番組で鼓童のことを知ったんですね。それが85年。当時は東京の高校生で、高校でブラスバンドでパーカッションをやっていたこともあって、太鼓に興味が生まれて、新宿での公演を見に行って。そのときのパンフレットに「鼓童村を作ろうとしている」とか「祭りをはじめようとしている」というようなことが書かれてありました。満員の電車通学にすごくくたびれていたし、田舎で暮らしたいという思いもありました。そして研修制度があることを知って、88年に研修生になりました。
ー 88年というのは、〈アース・セレブレーション〉が初開催された年ですね。
洲崎 研修生だから、つまり一番下の世代。準備に引っ掻き回されて、ひどい目にあいましたよ(笑)。それもいい思い出です。上之山 私はふたりとはずいぶん違っていて2007年です。〈アース・セレブレーション〉が20周年の年。私は佐渡生まれなんです。けれど自分が育った環境と鼓童は離れていたんですね。鼓童のことは知っているし、〈アース・セレブレーション〉も知っているけれど、参加したことはありませんでした。そんな状況でした。菅野と出会って、「鼓童が佐渡に還元できるものは何か」みたいな話になったんです。佐渡の人間にとっての鼓童の敷居の高さみたいなことも感じていて、じゃあ佐渡で育った人間だからこそできる橋渡しというか、佐渡と鼓童をつなげる何かをやれないかなと。それは今でも思っていることではあるんですけど。
菅野 鼓童村という自分たちの拠点を構えるというのが村構想の原点です。鼓童村のオープンが88年で、それに合わせて〈アース・セレブレーション〉がスタートしたんです。本当は87年に開村して祭りもはじめるという構想でした。代表であり鼓童を牽引していた河内(敏夫)が、87年の元旦に事故で急逝して、その年の実施が難しいということで1年延期しての開催でした。河内は大きく佐渡に拠点を持ちながら3つの活動をして行こうと提唱していました。ひとつ目が世界を回るっていうこと。「ワン・アース・ツアー」と私たちが呼んでいる音の「旅」。ふたつ目は「塾」って言ってましたけど学ぶ場所を作ること。それは研修所につながっていると思います。そして3つ目が「祭」。フェスティバルを作るということ。
ー その祭りが〈アース・セレブレーション〉なのですね。
菅野 佐渡の人たちにしてみれば、私たちが世界を回って経験していることを何も知らないわけです。だから、私たちが旅で出会ったアーティストの方々をお招きして、佐渡の人たちに見てもらう。そして祭りをやることで、島外の方々に佐渡に来てもらって、自分たちが暮らしている佐渡の風景や文化に出会ってもらう。そのふたつの大きな目的が〈アース・セレブレーション〉にはあるんです。
ー 88年のラインナップを見ると、すごいというかいろんなジャンルの方々がいます。
菅野 実は、87年に準備していたものと比べると、5分の1くらいかもしれないですね。87年も88年も「本当にできるの?」みたいなことが頭のなかにありながら準備していました。
ー アーティストに限らず、海外からのお客さんも〈アース・セレブレーション〉は多い印象です。
菅野 最初の88年は特に多かったですね。
洲崎 海外からのお客さんはどうやって情報を知ったんですかね。
菅野 海外公演のときに「鼓童が祭りをやるよ」ということが情報として伝わったのかもしれない。まだインバウンドっていう時代でもなかったわけだし。
上之山 インバウンドという言葉さえない時代です。
菅野 ただ最初から日英のバイリンガルで情報を出していくことはしていました。本当にどうやって告知していたのか(笑)。ホームページはなかったですし。チラシを作って観光案内所に送ったりはしてましたね。
ー アーティストの招聘も、連絡は電話や手紙ですよね?
洲崎 インターネット自体がまだない時代で、当然メールもないし。今から考えると、どうやって佐渡で仕事をしていたのか、さっぱりわかりませんよ(笑)。
菅野 タイプライターで打ったものを手紙で送ったりしていました。
ー 〈アース・セレブレーション〉という名前は、最初から付けられていたのですか。
菅野 名前はいろいろ考えましたね。最初は〈ワン・アース・フェスティバル〉と言ってたりもしました。まだフェスティバルも、フェスティバル・カルチャーも日本には知られていない時代でした。地に足のついたっていうか、大地を「ことほぐ」お祭りにしたいと河内と話していました。「ことほぐ」に近いニュアンスが「セレブレート」。自然への畏敬の念を現した言葉が「セレブレート」であり、自分たちの祭りにふさわしいのはフェスティバルではなくセレブレーションではないかということになって。
ー 80年代後半とフェスが数多く開催されるようになった現在とでは、フェスという言葉が持っている意味合いも変わってきているように思います。鼓童村の開村としての祭りから、小木という佐渡の町で開催されるフェスへ。フリンジは、1年目からあったのですか。
菅野 2年目からですね。お手本にしたフェスのひとつが〈エジンバラフェス〉でした。クラシックだったりバレエだったりの、いわば格式の高い〈エジンバラ・インターナショナルフェス〉。それとは別に自分たちを売り出したい人たちが、周辺のストリートでパフォーマンスする。演劇もあれば、コメディも音楽もある。それがフリンジ。フリンジは「周辺」という意味です。いつしかフリンジのほうが人気になって、ロンドンのウェストエンドや各地のフェスのプロデューサーが見にきて、自分のハコやフェスへスカウトする。そのフリンジをエジンバラで河内が見て、佐渡でもやりたいと。
ー マーケットも 〈アース・セレブレーション〉の大きな魅力のひとつです。
洲崎 最初はマーケットなんてなくて、お客さんが勝手にフリーマーケットをはじめたんです。92年にセネガルから来たドゥドゥ・ニジャエ・ローズは、城山でコンサートが開場しているのに楽屋にいない。ずっと太鼓を売っていて、そんなことも自由でしたね。
ー 例えば10年は続けようとか、継続性も描いていたんですか。
菅野 鼓童村の祭りでしたから、私はずっと続けていくというつもりではいましたね。
洲崎 最初から手作りだったんですよ。舞台を作るのも業者さんにすべてを委託するのではなく、我々が一緒になってステージを組む。それがすごく楽しかったですし、開催するために自分たちが身体を動かしたことで続けられたということも要因としてあると思います。
ー コロナ時代の配信も含めると、今年で38回目の開催になります。〈アース・セレブレーション〉の魅力って、どこにあると思っていますか。
菅野 日本の野外フェスでは、会場となるエリアのなかだけでフェスが完結しているものがほとんどじゃないですか。でも 〈アース・セレブレーション〉はロケーション自体が、町という日常のなかにある。だから 〈アース・セレブレーション〉というフェスティバルの非日常と小木という町の日常の両方を楽しんでもらえる。
洲崎 我々もここ(小木)に住んでいる。おじいちゃんもおばあちゃんも、〈アース・セレブレーション〉の歴史とともに歩んで来られたし、楽しかった記憶もお持ちなんです。生まれたときにはもう 〈アース・セレブレーション〉があったいう世代も増えてきています。そんな地域の方々とのいい関係を、時間をかけて構築してきたという自負はあります。
菅野 例えば〈利賀フェスティバル〉だったり〈ダンス白州〉だったり、〈アース・セレブレーション〉をはじめた頃には、他にもパフォーミングアーツのフェスはあったのだけど、なぜか鼓童は続いている。フェスはいろんなアーティストをキュレーションする。いっぽう〈アース・セレブレーション〉は鼓童というアーティストがホストで、鼓童がゲストを呼んでコラボレーションする。鼓童が止めると言わない限り〈アース・セレブレーション〉は続いていくっていうか。もともと、自分たちの村の祭りですから。
洲崎 もちろん継続させるためには、ある部分では商業的にならざるを得ないのですけど、商業的過ぎるわけでもない。アカデミックでもない。たぶん太鼓が持っている特性でもあるのかなって思うんですけど、やっている本人は楽しくて、それが見ているお客さんにも伝わる。頭のなかだけで考えているものでもないし、志だけでやっているものでもない。純粋に好きだったり、楽しかったりっていうのが根本にあって、それがずっとみんなの心のなかに残っている。それが続いている一番の要因なのかなって思います。それは〈アース・セレブレーション〉だけではなく、鼓童にも言えることなんですけど。
ー 今後はどういう〈アース・セレブレーション〉に、あるいは鼓童にしていきたいと思っていますか。
上之山 コロナ後の数年は、小木の町をより楽しんでもらえるように、エリアを拡大させています。そのひとつひとつを充実させていきたいっていうのが直近の目標。そして持続可能性という部分を考えています。佐渡自体の持続可能性を 〈アース・セレブレーション〉としても一緒に構築していく。佐渡の祭りとして、どう見せていくのがいいか。個人的には以前メイン会場だった城山という場所をどう展開していくのがいいか。
菅野 城山という場所は、 〈アース・セレブレーション〉の聖地のようなところです。数々のマジカルなことが起こってきたし、自然に囲まれていることからも 〈アース・セレブレーション〉にふさわしい場所ですから。
洲崎 かつては旅が鼓童のなかではメインストリームでした。けれどいつしか家族を持つメンバーが増えて、子どもが生まれて。佐渡で生まれた子どもは佐渡の子どもなんですね。佐渡の文化や暮らしのなかで、佐渡で生きるっていうメンタルがどんどん増えていっているような気がします。旅も大切だけど、佐渡にいることも大切。おそらく 〈アース・セレブレーション〉もそうで、鼓童の若い世代が 〈アース・セレブレーション〉を担うようになって、より佐渡のフェスティバルなんだということにスイッチしていっているように感じます。
ー より佐渡という場所に根付いていっているということですね。
洲崎 意識もグローバルに向かっていた時代から、地に足をつけたものを探している時代へ。世の中もそう変わってきているように感じています。
菅野 鼓童というグループが、佐渡という個性もアイデンティティとしてしっかり入ったグループになっていく。それにはそれなりの時間がかかるし、やっとそれを掴みかけてきているんだと思います。 〈アース・セレブレーション〉でも、自分たちがやりたいことが自然と出てくるし、それが佐渡の祭りになっていく。そんな未来が近づいてきていると思います。
太鼓芸能集団 鼓童
1981年、ベルリン芸術祭でデビューした鼓童。以来50以上の国と地域で7,500回を超える公演を行なってきている。豊かな自然と芸能の宝庫である本拠地・佐渡で、1988年より佐渡市と共に国際芸術祭〈アース・セレブレーション(地球の祝祭)〉を開催。コロナ禍時代に配信のみで行われたこともあったが、途切れることなく継続されている。正式名称は正式名称を「太鼓芸能集団 鼓童」。https://www.kodo.or.jp/
1988年が初開催。佐渡(ローカル)から世界(グローバル)に向けて発信し続けている鼓童による太鼓カルチャー。ハーバーマーケットや数々のワークショップなど、ライブ以外の楽しみもここだけの魅力。かつてメイン会場だった城山は一昨年からキャンプサイトになっている。
開催日:8月22日(金)23日(土)24日(日)
会場:佐渡島小木(新潟県佐渡市)
出演:鼓童、el tempo、Aly Ndiaye Rose、Ben Aylon、Baye Dame Bou Yaye、崔在哲、Dourfal Ndiaye Rose、ほか
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