1971年にはじまった〈春一番〉。中断はあったものの、半世紀以上にわたって続いてきた関西のみならず日本を代表する野外コンサートが今年5月で幕を降ろす。昭和、平成、令和。〈春一番〉の主催であり支柱だった福岡風太の息子・福岡嵐が、その決断をくだした。
文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchi
ー嵐さんの〈春一番〉の最初の思い出はいつになるのですか。
嵐 1995年に復活したときですね。そのときは中学1年で、母に連れられていったのが最初の思い出です。〈春一番〉は71年にはじまって79年にいったん終わっています。僕は82年生まれだから、70年代の〈春一番〉は生まれていなかったですから。70年代を知らない世代なんです。
ー父親であり〈春一番〉の主催を担っていた福岡風太さんが昨年6月にお亡くなりになりました。風太さんが続けてきた〈春一番〉のこと、そして風太さんのこと。息子さんである嵐さんはどう思っていたのか。今回の取材はそれをお聞きしたいと思ってのものです。
嵐 2025年で〈春一番〉を終わりにします。「BE-IN LOVE-ROCK」とサブタイトルに付けているんですけど、これは福岡風太が、自分で手がけたはじめての野外コンサートにつけたタイトルなんです。50年以上の前のことなので、出演者が誰だったのかとかの記録があまり残っていないんですけど。
ーどういうきっかけで風太さんはその野外コンサートをやろうと思ったのですか。
嵐 ビートルズの映画上映と抱き合わせた野外コンサートだったそうです。この「BE-IN LOVE-ROCK」のほかに「感電祭」と「ロック合同葬儀」っていう3つの野外コンサートを70年にやって。その3つが翌71年に初開催される〈春一番〉の基盤になったというか。70年頃は、ひたすら野外コンサートやライブを作っていたみたいです。
ーなぜロックコンサートだったのでしょうか。
嵐 風太は69年にアメリカで開催された〈ウッドストック〉に憧れてたんですね。「60年代後半からの安保闘争で、自分は体制に向かって火炎瓶を投げている側だったけれど、これで何かが解決できるわけではない。平和を求めているのに、みんながケンカしちゃっている。それだったら音楽で平和を表現したい。仲間と一緒にコンサートを作って、〈ウッドストック〉のような平和の祭りをやりたい」。規模がどうのこうのじゃなくて、仲間と遊びたかった。自由でいたかったんだと思います。70年って、風太は22歳か23歳なんですよね。
ーかなり若いですし、その年齢で野外イベントを立ち上げるってかなりの挑戦だったはず。
嵐 みなさん若かったんですよね。とにかく仲間と遊びたかった。音楽で遊ぶ場が欲しかった。そのなかで「愛と平和」をどうやって表現しようかとずっと考えていたと思うんです。そのひとつが運営母体を会社にしないでフリーでい続けること。守るものをできる限り少なくすることが、自由でい続けられることだと。
ーそして95年に復活して、コロナ禍での開催見送りはあったものの、今年まで継続しています。大阪のゴールデンウィークの風物詩と言ってもいいかもしれない。
嵐 やっぱり続けるってすごいエライことですよね。お客さんが来てくれたし、〈春一番〉っていうコンサートを楽しみに来てくださる方がたくさんいましたから。ただ〈春一番〉は、知る人ぞ知るっていう存在ですよね。音楽が好きな人だったら、〈フジロック〉や〈サマソニ〉は知っているわけじゃないですか。〈春一番〉は決して有名ではないですから。
ー95年に復活したのは、どんな理由からだったと思いますか。
嵐 ちょうど30年前なんですよね。風太は94年に胃癌の手術をして、胃の4分の3を取っているんです。そして5月の開催を決めた後に阪神淡路大震災が起こった。仲間で集う場をもう一度作って、それを続けたいと思ったんじゃないですかね。
ー嵐さんは95年以降、ずっと〈春一番〉に参加していた?
嵐 95年と96年だけ。生まれは名古屋なんですけど、小学校から東京でしたから。中学高校とずっとサッカー部だったんです。ゴールデンウィークって大切な試合があるんですよ。バンドもやってましたから、部活とバンドが自分の世界でした。僕には僕の好きな音楽もあったし。
ー確かに〈春一番〉は中学生が好むラインナップではないでしょうから。
嵐 音楽って自分で選んでいくものじゃないですか。当時はミッシェル・ガン・エレファントなんかが好きでしたから。もちろん〈春一番〉が横にあるから音楽の幅は広がっていきましたけど。
ーいつ頃からスタッフとして〈春一番〉に携わるようになったのですか。
嵐 18歳ではじめてスタッフとして関わったんです。コンサートなどで搬入・搬出や警備、ステージハンドを派遣する東京の会社でバイトしていたんですけど、そこで〈フジロック〉などの野外フェスにも派遣されていたんですね。そんな経験のなかで、「親父が〈春一番〉をやっている。いずれ僕がやることになるのかな」って思ったりもしていたんです。
ーその思いがだんだん大きくなっていったのですか。
嵐 風太がやりたいと思っている間は自分も続けようとは思っていました。けれど継ぐということは考えていなかったですね。そのことは20年ほど前から風太と話していました。
ーそして時代はコロナになって、開催が見送られました。
嵐 その前の2018年1月に母親が亡くなったんです。男って弱いもので、風太は一気に元気がなくなったんです。母はずっと風太を支えていたし、先に逝ってしまうのは風太だと思っていました。風太もそう感じていたと思います。風太は本番になると元気になるんですけど、時間が経っても元気や気力が戻らない。2018年、2019年はなんとかやれたんですけど、2020年で終わろうという話をして。
ーそれで2020年は〈終・春一番〉というタイトルにしたんですね。
嵐 風太がいるからこそ、周りは支えようとしてくれるし、協力もしてくれる。ミュージシャンは出演してくれる。だけど実務的なところはまったくやれなくなっていましたから、「もう無理だから。あなたがやっているとは言えない状態だから」と説得して。死んだから終わりましたからではなく、生きているうちにお終いですって伝えたほうがいいだろうっていう話をしたんです。けれどその〈終・春一番〉がコロナで開催できなくなってしまって。
ー結局コロナ禍では何回開催できなかったのですか。
嵐 20年21年22年の3回ですね。よく「終わられなかったけど、どうする?」みたいな話をしていたんですね。フェイドアウトしていくのか、やり直すのか。ふたりでどの道がいいのか、いろいろ考えていましたよね。コロナで暇になったし。
ーそのなかで、もう一度やらなければということになったのですか。
嵐 「〈終・春一番〉ができてないからな」ってボソッと言ったことがあったんです。これはやる気があるんだなって思って。4年も空いちゃったんですけど、リハビリをすごい頑張って。それで2023年に〈春一番〉を開催することにして、1月に発表したんです。けれどその発表の1週間後くらいに脳梗塞で倒れて。風太はかなりショックだったと思うんです。自分の体は復活して、気力も戻って「やるぞ」ってなっていたのに、一発でアウトになったわけですから。
ー2023年は会場に風太さんは来られなかったんですか。
嵐 1日に数時間ずつだけでいいから会場に来させてくれないかと、病院に無理矢理に頼んで。介護タクシーを呼んで、会場に数時間だけいたんです。そのときはまだ頭はしっかりしていましたから、MCのマイクを握って「死ぬまでやるぞ」って言ったんです。「無責任なことを言いやがって」って思いましたよ(笑)。と同時に、だったら死ぬまで付き合おうとも。
ーそして2024年も開催された。
嵐 これも開催を発表した直後の1月だったんですけど、風太がコロナに罹患してしまったんです。免疫力が落ちているから、治ったと思ったら肺炎になって入院して。誤嚥性肺炎。そのあたりから自分の記憶も曖昧になっていくんですけど、風太は一気に弱まっていったんです。〈春一番〉まで保たないかもなって思えるくらいでした。公にはしていなかったんですけど、「会っておいてもらったほうがいい」という案内は、風太の近い関係の人には出していました。そしていろんな方々が会いに来てくれました。それが癪にさわったのか「死んでたまるか」って思ったんでしょうね。起き上がれなかったのに、〈春一番〉が近づいていくに合わせて元気になっていったんです。歩けるようになったし、話せるようになったし。病院サイドもいろんな人が面会に来るから、ウェブなどで調べたんでしょうね。「元気になったら会場に行かせてあげたい」と言われて。
ー病院からそう言われたのですか。
嵐 そうなんです。偶然というか幸運というか、いろんなことが重なって、結果として風太は最後の〈春一番〉に顔を出すことができた。死ぬまでやりきりましたよね。そして〈春一番〉のほぼ1カ月後の6月10日に亡くなりました。
ー2025年の〈春一番〉を終わりにしようと考えたのは?
嵐 結局、9月までは何も考えられなかったんですね。秋になって、グリーンズコーポレーションの鏡さんから「来年の〈春一番〉はどうするの?」っていうメールをもらったんです。グリーンズの鏡さんは〈春一番〉の70年代からのスタッフで、ミュージシャンのギャラだったり交通費だったり、お金のことをずっと管理してくれていました。鏡さんと立ち上げメンバーの阿部登さん、そして福岡風太。この3人がいなければ、〈春一番〉は生まれなかったし、続けられていなかった。僕はその時点で「やりたくありません」って自分の気持ちを正直に返信したはずなんですね。やる意味はあると思ったんです。けれど、そのときの僕の状態ではできないし、やる意味もなかなか見出せなかったし。
ーそんな気持ちだったのに終わりを開催することになったきっかけは何だったのですか。
嵐 ずっと出演してくれているミュージシャンや参加してくれている有志スタッフには、福岡風太イコール〈春一番〉、〈春一番〉イコール福岡風太であり〈春一番〉イコール阿部登って思っている人が多いんです。阿部登さんは2010年に亡くなっています。あるミュージシャンに「風太も阿部もいなくなったら終わりだ。引導を渡してほしい」って言われたんです。本来なら風太に言ってもらいたかったけど、〈春一番〉からお終いだからって言われたら俺もやっと解放されると。
ーそれで〈春一番 BE-IN LOVEROCK〉として開催する。
嵐 風太は野外フェスではなく野外コンサートにずっとこだわってきました。今は福岡風太が作ってきた〈春一番〉という作品に、最後の句読点をつける作業をしているなって思っています。最後のまる。〈春一番〉は、出演者は固定されているように見えるかもしれないのですけど、毎年ちょっとずつ違うものを作ってきました。新しく循環していかないと、おもしろいものは作っていけないと思っています。ただ今回に限っては、新しい人をキャスティングするっていうことを一切考えませんでした。この人は絶対に出てもらわなければならないという気持ちでのキャスティング。
ー長く続いてきたものに句読点をつける。かなりの決意も必要だったのではないですか。
嵐 必然でもあったと思います。「〈春一番〉を終わりにします」って言えるのは、僕だけだったのかもしれないし。何年か経って、例えば僕が50歳近くになって「今年のゴールデンウィークにみんなと集まりたいな」って思ったら、自分でイベントを立ち上げるかもしれない。〈春一番〉という名前を使わずに。風太は「〈春一番〉は俺のもんだし、阿部登のもんだから、お前はお前でやれ」と言ってましたから。
ー嵐さんなりの最後の〈春一番〉のテーマは?
嵐 感謝ですね。今まで福岡風太と遊んでくれてありがとうございました。そのことを出演した人、スタッフ、見にきてくれたお客さん。すべての人に伝えたいです。
ー父親としての風太さんはどうでしたか?
嵐 最悪、最低ですよ(笑)。そんな風太を母がずっと支えていた。かつては「親父」とか「父さん」とかって呼んでたんですけど、30歳になった頃に「風太」と呼ぶようになりました。親父って思っちゃダメだなって思ったんですよ。
春一番 福岡嵐
1971年に福岡風太、阿部登らが中心になって、関西を中心としたミュージシャンを集めて開催された野外コンサート。1979年まで続き、阪神・淡路大震災の起きた1995年から再開した。阿部登が2010年、福岡風太が2024年に逝去。福岡風太の遺志を継ぐ形で、晩年は息子の福岡嵐が中心となって開催を続けてきた。2025年で〈春一番〉の幕は降りる。
春一番 BE-IN LOVE-ROCK
開催日:5月3日(土・祝)4日(日)5日(月・祝)
会場:服部緑地野外音楽堂 (大阪市豊中区)
出演:いとうたかお、豊田勇造 with YUZO・BAND、Mari Kaneko presents 5th Element will、木村充揮、のろしレコード、センチメンタル・シティ・ロマンス、山下洋輔、ほか
https://www.haruichientertainment.net/
0コメント