旅のドキュメントを屋久島から発信。【SAUNTER Magazine(国本真治)】世界自然遺産の地、屋久島。古くから移住者も多いこの場所から発信する旅の視線。都市からであり、自然の懐からでもあり、そのどちらでもない独自の視点が内包されている。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 北村勇祐 photo = Yusuke Kitamuraー 屋久島発の雑誌『サウンターマガジン』。まず屋久島の魅力を教えてください。国本 屋久島って「島」なんですけど、「山」なんですね。花崗岩の塊。標高2000メートルに近い山が連なっていて、山頂近くでは冬だと雪が降る。麓ではハイビスカスが咲いて、バナナなどの南国のフルーツも採れる。水も豊富で、しかも僕は硬水より軟水が好きなんやけど、屋久島は超軟水。温泉も...2022.07.02 00:00NEWSINTERVIEWFEATURE
ビート~カウンターカルチャーの スピリットを日本に伝えていく使命。【Flying Books(山路和広)】ミニプレスを含め、様々なスタイルで刊行される本や雑誌。ある文化をクローズアップし、独自の目線でセレクトするには、新刊ではなく古書というジャンルが正道だった。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 伊藤愛輔 photo = Aisuke Ito2022.06.23 01:00NEWSINTERVIEWFEATURE
1/4エコロジーという ライフスタイル。【KINARI(彦根泰志)】何も染まっていなくて、これからどんな色にも染まっていく「生成り」。その色をタイトルにしたKINARI。様々な都市のカルチャーという独特な色を雑誌に加味している。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 須古 恵 photo = Meg Sukoー 創刊したきっかけを教えてください。彦根 スタイリストをしていました。『KINARI』を発行してくれることになるネコ・パブリッシングでも仕事をしていて、編集長に「自分が思い描く雑誌を作りたい」って、お酒の席で言ったんです。そしたら本当に創刊することになりました。ー スタイリストだったわけだから、ファッション誌を作りたいと思った?彦根 ファッション誌ではなく、基本...2022.06.13 08:00NEWSINTERVIEWFEATURE
形あるものの無限性。【ちゃぶ台 / ミシマ社(三島邦弘)】一冊の本には、かけがえのない出会いをもたらす力がある。形があるからこそ生まれる無限の関係性。一冊入魂をモットーに、時代に流されることのない真のある本や雑誌を生み出し続けている。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 伊藤愛輔 photo = Aisuke Itoー どんなきっかけでミシマ社を立ち上げたのですか。三島 大学を卒業して、2社の出版社に勤めていました。2社目が、会社と自分が水と油というか、どうしても自分の体質と合わなかったんです。何度も気持ちを持ち直して頑張っていたんですけど、フッと「自分で出版社を作ればいいんだ」って直感的に閃きました。自分なりにやることはやって、万策が尽きたなかでポンと出て...2022.05.27 00:20NEWSINTERVIEWFEATURE
Communication by Paper 紙のコミュニケーションCommunication by Paper 紙のコミュニケーション種々雑多なコンテンツがデジタル空間には満載している。ウェブは無限の広がりがある。確かにそうだろう。けれど印刷された紙にも、無限の可能性があるのではないか。紙のメディアや本を媒介にすることで、人と人の豊かなコミュニケーションが生まれる。紙に残されたことは時代や時間をも共有する。これからの時代も、紙がもたらしてくれる幸福な関係が失われることはないはずだ。写真 = 須古 恵/伊藤愛輔2022.04.25 03:57NEWSFEATURE
玄米菜食〜発酵で気づいた身体の声。大地と過ごすことで得られる喜び。【ジャー村(発酵農園)】時間に追われ、体調を崩してしまったライブハウス時代。そこから食によって身体は恢復していったという。人里から離れた山奥で、限りなく自給自足に近い暮らしをおくっている。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchutaishi☆Starー 農的な暮らしをする前は、どんなことをしていたのですか。ジャー村 熊本市内のジャンゴっていうライブハウスでPAをしていました。はじめはレゲエ、ボブ・マーリーのメッセージから入って、いろんな音楽を聞くようになりました。多くのミュージシャンとも関わりを持つようになって。環境などへの意識が高い人も多くて、オーガニック・カルチャーの方々とも繋がり...2022.04.18 02:06NEWSINTERVIEWFEATURE
大鹿村で綴られていく音楽と農という持続可能なライフスタイル。【TAKERU ANBASSA】かつてヒッピーがコミューンを求めて田舎を目指したように、80年代に自然のなかの理想郷のひとつとなった長野県大鹿村。この村で育った第二世代による未来思考の音楽と農のバランス。文 = 菊地 崇 text = Takashi kikuchi写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchutaishi☆Starー 大鹿村で生まれたのですか。タケル 親父たちが大鹿村に来たのは俺が生まれる2~3年前。最初は古民家を借りて暮らして、数年してもっと奥深い山に場所を見つけ、そこを開拓して家を建てた。水が湧いているということで、その場所に決めたそうです。その山に引っ越したのは俺が小学校4年か5年のとき。ー 音楽をやりはじめたのはいつ頃?タケル 歌う...2022.04.07 02:21NEWSINTERVIEWFEATURE
農家と消費者をつなぐ八百屋というポジション。【鈴木鉄平(青果ミコト屋)】不揃いの野菜だからこそ、それぞれの個性がある。おいしい野菜を広めていくためには生産者の思いを伝える役割の人間が必要だと考え、八百屋という道を選んだ。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 伊藤愛輔 photo = Aisuke Ito2022.03.10 01:12NEWSINTERVIEWFEATURE
どこかで不要になったものを生かす循環型オーガニック農業。【野原健史(のはら農研塾)】人間が作り出した「不要」なものが循環する社会。その一歩目として選んだのがオーガニック農業だった。消費社会の不都合をプラスに変えていく農業による挑戦。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchutaishi☆Starー 「のはら農研塾」をスタートさせたのはいつだったのですか。野原 自分ではなく、25年くらい前に親が立ち上げたんです。親はゴミの最終処分場を営んでいました。最終処分場って、広い土地が必要なんですよ。それで農地を購入して、処理場として使わないものは、そのまま農地として現代農業をしていました。ー 野原さんが農業をやろうと思ったきっかけは?野原 しばらくは親の仕...2022.02.17 05:00NEWSINTERVIEWFEATURE
アートと自然とコミュニティが ハイブリッドした桃源郷の構築。【檻之汰鷲】パーティーからアートへ。旅の先に行き着いたのが、自分が集落をデザインしていきながらアートとして結実していくランドスケープ・アート。北茨城で新たなコミュニティを構築している。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー 野外、あるいは田舎に興味を持ったのは、どんなきっかけがあって?檻之 学生のときに音楽が好きで、ライブハウスとかクラブで遊んでいたんですね。友人が山のなかでイベントがあるらしいってどこかから聞いてきて。確かな情報ではなかったんですけど、場所だけはなんとなくわかったので、友人と電車を乗り継いで行ったんです。そしたら自分の想像のスケールを超えるパーティーが行われていた。それから野外パーテ...2022.02.08 08:29NEWSINTERVIEWFEATURE
緑の時代への祈り。じゃがたら/江戸アケミの意思の継承【OTO】江戸アケミが歌や音楽に託していた「緑の時代」というメッセージを追い求め、土に触れる暮らしのなかから芽生えた「生命平和」への願い。文 = 菊地 崇 text = Takashi kikuchi写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchutaishi☆Starー 熊本ではいつ頃から暮らすようになったのですか。OTO 2009年くらいかな。当時は父が富山にいて介護が必要だったので、サヨコオトナラの旅〜富山〜熊本という3点生活という感じでした。熊本を拠点にして暮らしはじめたのは2012年になります。ー サヨコオトナラの旅が、都市から離れていく大きなきっかけになったのですか。OTO サヨコオトナラは2004年にはじまったんだけど、ちょ...2022.01.29 02:31NEWSINTERVIEWFEATURE
日常の側にあるもの。音楽と陶器に込める思い。【Tak Suzuki(鈴木窯)】自分の足でロクロを回し薪を使って焼く陶芸のスタイル。飾られるものではなく、日常で使われる焼き物という存在。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー バンジョーを弾くようになったきっかけから聞かせてください。T 高校1年のときがアメリカ建国200年の年でした。東京の高校に通っていましたから、学校の帰りにデパートでやっていた建国200年物産展とかアメリカンアート現代展のようなものを見て帰ってきたりしていたんです。雑誌『POPEYE』が創刊したのもその年。アメリカ文化に興味を持ってしまったんですね。それでいつかアメリカに行きたいと思うようになって。大学受験に失敗して、時間ができたからアルバイトをし...2022.01.20 01:41NEWSINTERVIEWFEATURE