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正統的なジャムロック。浮遊感のあるサウンドの行方。【barbarfish】

barbarfishジャム特有の浮遊感のあるギターサウンドにグルーブのあるリズム。音に身をまかせることが心地よいサウンドが放射される。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 林 大輔 photo = Daisuke Hayashiー 今のメンバーになって活動をはじめてからどのくらいになるのでしょうか。ダイ ちょうど10年くらいですかね。このメンバーがそろう前には、ジャムではないロックバンドでした。ヨシハラ カワイくんが入る前に3人でやっていた時期もあるんですけど、なんかうまくいかなくて。3人だとどうしても音が足りなく感じていて、そんなときにカワイくんに入ってもらったらしっくりいって。ー たぶんバンドの持つバランスがそう感じさせてくれるんでしょうね。そして今年、セカンドアルバムをリリースしました。ダイ ファーストアルバムをリリースしたのが4年前。今回はレコーディングしたい曲が増えてきて、みんなが出そうかっていう思いになったんです。ー ジャムバンドだと、曲はライブで作られていくことが多いのですか。ダイ 僕らはスタジオに入ることも好きで、今でも週に2回、みんなでスタジオに入っているんです。スタジオにネタを持っていって、みんなで膨らませていく。ヨシハラ メインのフレーズのひとかたまりをみんなで作って、そこから広げていくということが多いと思います。だから作りかけでお蔵入りみたいになっちゃうこともしょっちゅうで。カワイ そしてある程度かたまってくるとライブでやっちゃおうという空気が出てくるんです。ダイ その曲を好きだ、やってみたいっていう圧が、みんな同じくらいに高まってくると、次のライブでやってみようかってなっていって。ー セカンドアルバムを制作にするにあたって、コンセプトやテーマは設定したのですか。ダイ アルバム自体に明確なテーマとかはなかったですね。時間をかけて曲としてできあがったものを、ひとつひとつ録った。だからバーバーフィッシュの今に繋がる歴史の一部分というか。ヨシハラ 今回は曲を短くしたりはしなかったんです。前作はスタジオ盤っていうことを意識してコンパクトにしたんですけど、ライブに近い感じで録ろうっていうことになって。

フィーリングを融合させ、 インストジャムからファンクへ。【Muff】

Muffカラフルに表情を変化させるダンサブルでファンキーなビート。メンバーチェンジを経ても、バンドとしての核を消すことなく新たにプラスされていく。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 林 大輔 photo = Daisuke Hayashiー ジャムをバンドの音の中核にするようになったのは、いつくらいのことだったのですか。田口 Muffっていう名前でバンドをはじめたときはトリオで、歌もあるグランジロックをやっていたんです。メンバーのなかで今も残っているのは僕だけなんですけどね。いわゆるジャムバンドのようなスタイルになったのは10年くらい前です。ー バンドのスタイルが移行していったのはどういう理由があって?田口 2002年とか2003年とか、野外で小規模なパーティーがいろいろ開催されていたじゃないですか。 DJなりバンドが、野外の空間で音を出しているのを体験して、こういう表現の仕方、こんな遊び方もあるんだって刺激を受けて。それまではライブハウスで汗かいて、一生懸命ライブしていましたから。ちょっとずつ自由な方向って言ったらいいか、パーティーやダンスミュージックシーンに転換していったんですね。歌も少なくなっていって。そして完全にインストになって、クラブとか野外フェスに出るようになったんです。ー それが10年前くらいということですか?田口 そうです。いわゆるグレイトフル・デッドやPHISHを通ってジャムへというわけではなく、日本のジャムシーンから影響を受けて変化していったんです。ー メンバーチェンジも多いようですけど、メンバーが変わることで音も変わっていったのですか。田口 ジャムをはじめた頃は、いわゆる日本のジャムバンドっぽい音楽だったんです。僕がそこに憧れを持っていましたからね。メンバーが変わって、徐々にファンクが好きなメンバーが増えていって。僕もファンクにより興味を抱くようになって。自然とファンクグルーブのなかにジャムっぽいフレーズとかサイケデリックな感覚を乗っけていく方法になっていきましたね。

【SOIL & "PIMP" SESSIONS】5人の「今」の音。クラブミュージックとしての進化系。

SOIL & "PIMP" SESSIONS長く6人で活動を続けてきたソイル。5人になることでどんな変化が現れてくるのか。マイナスになったのではなく、プラスされたサウンドが聞こえてくる。文 = クリススカル text = Sukaru Kuris写真 = 伊藤愛輔 photo = Aisuke Itoー SOIL & "PIMP" SESSIONSが5人になって再始動したのが去年の春。そして5人になっての初のアルバム『DAPPER』がリリースされました。制作過程や気持ちの持ちようなど、どんな変化があったのでしょうか。秋田 制作で前とだいぶ違うのは、ほぼイメージができあがっている曲をみんなで完成させていくというパターンになってきています。データ上でできあがっているものに対してどうアプローチしていくかっていう。タブゾンビ 社長がコンセプトを担っていて。ある意味、社長がプロデューサー的な立ち位置にいましたね。社長はアシッドジャズから大きな影響を受けているので、社長が描いていた作品は多分そういうものだったんじゃないかと。ー クラブミュージック的な要素が増しているということですか。タブゾンビ ということよりも、DEATH JAZZをやっていない。ソイルからDEATH JAZZを引いたアルバム。聞いていて自然と腰が揺れるような、そんなアルバムです。ー ソイルといえばDEATH JAZZというイメージでしたけど。タブゾンビ みんなのベクトルが、今そっちに向いていないというか。全員の気持ちがこういう感じなんですっていうことが表れている。秋田 かつてのソイルのような作品の作り方をしていたんだけど、社長が持ってきた曲でいいものが多かったから、コンセプトもそこに寄せていったらどうだろうっていうアイデアが出てきたんです。タブゾンビ 前のソイルは、ひとりひとりの作品がゴツゴツしていて、バラエティに富んでいてそれも良かったんだけど、『DAPPER』はもっとこう流れで聞けて、すごく気持ちいいなって自分でも思います。

旅へ。旅から。路上から生まれてきた曲たち。【東田トモヒロ】

東田トモヒロギターとサーフボードを車に乗せてオンザロードへ。旅から生まれる感情を言葉やメロディに変えていく。だからこそそこには等身大のメッセージがある。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 飯塚キアラ photo = Kiara Iizukaー 新作『WONDERFUL ROAD』は、いつ頃から制作を開始したのですか。東田 曲作りに取り掛かったのは、確か去年の2月。ミニアルバムの「ひだまり」を録音し終わってすぐでした。ひとつのことを消化しきった感じにならないと、なかなか次に行けない性分なもので。なんとなく浮かんだアイデアをいつもポケットサイズのレコーダーにたくさん残しているんだけど、そいつを改めて聴き直す作業からはじめるんです。これはいい曲になりそうだな、これはボツだなとかからはじまって。なかには、げっ、これなんかニール・ヤングの曲をパクってる感じするじゃん、みたいなのもあったりしてね。(笑)。ー 『WONDERFUL ROAD』というアルバムに、どんな思いを込めているのですか。東田 ここ数年、飛行機に乗る回数を減らして、なるべく熊本から車で出発してツアーやライブをこなすようにしているんです。その方がギターだけじゃなくてピアノもサーフボードも積めるしね。季節のいいときなんかは好きなところで休める。そうしているうちに旅がより濃密になってきたんですよね。運転している時間は、自分と向き合う時間でもあるから、風景だけでなく思考のなかでもたくさんの旅ができる。そんな旅の暮らしから、ときには波乗りしながら海の上から、少しだけ俯瞰で世界や物事を感じたり考えたりしていたのかもしれない。きっとそんな思いをまとめてみたのが今回のアルバムですね。すべてできあがって気がついたことなんだけど。旅はリアルであり偉大だなっていう。ー 「いのち」とか「旅」といった言葉が耳に残りますが、歌に込めているものって何ですか?東田 1 曲目の「世界の唄」に意外とメッセージを集約させているかも。大袈裟かもしれないけど、ブッディズムの自分なりの解釈というか。身近な人やできごとの存在を尊敬し、シンプルに愛することこそ尊いことだと。なかなかそんな風に生きられないけど、ときどきは意識したいなっていうか。

表現力とアイデアを詰めた アコースティック型。【SPECIAL OTHERS ACOUSTIC】

SPECIAL OTHERS ACOUSTIC表現としてまったく別というエレクトリックとアコースティック。個々のスキルや楽器の持つ特性がより表現せざるをえないのがアコースティックかもしれない。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 伊藤愛輔 photo = Aisuke Itoー SPECIAL OTHERS とSPECIAL OTHERS ACOUSTIC。エレクトリックとアコースティックというコンセプトだけではなく、自分たちのなかではどんな違いを持っているのですか。又吉 楽器の身軽さの違いは大きいですね。エレクトリックになるとどうしても機材が増えてしまう。宮原 メンバーがいて楽器を持っていれば、ストリートでもすぐにライブができちゃうみたいな感じがコンセプトなんですよ。芹澤 楽器も違うしアプローチも違う。だからSPECIAL OTHERSの曲をアコースティック楽器でカバーしているだけのものじゃないってことを伝えたいっていうことが一番に持っていますね。柳下 エレクトリックだとエフェクターだったり、多くのことに気をくばってライブしたりレコーディングしたりしているんですね。アコーステックだと楽器だけに集中できるっていうか。楽器そのものを楽しめるっていうことがあると思います。楽器自体が持っているポテンシャルをどうやって引き出そうかみたいな。あともうひとつ、原点に帰っているという感じがしますね。宮原 演奏していても、直接音を出しているっていうことがやっぱりでかいですよね。電気を使わず、ちゃんと音の波を生んでいるっていう。

子どもたちに希望ある未来を。フェスがもたらしてくれる平和。【RAINBOW CHILD 2020 岐阜県八百津町 西田優太】

RAINBOW CHILD 2020 岐阜県八百津町 西田優太福島原発事故は多くの人に気づきをもたらし、その気づきが行動へとつながっていった。被災した家族を保養することを目的に活動している海旅キャンプ。そしてそれをきっかけに立ち上がった〈RAINBOW CHILD 2020〉。このタイトルには20年前に開催された〈RAINBOW 2000〉のメッセージを継承するスタンスも込められている。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー〈RAINBOW CHILD 2020〉を立ち上げたきっかけはどういうものだったのですか。西田 東日本大震災以降、僕らは災害支援をしていて、東北でいろいろ活動していくなかで「保養」ということを思いついたんです。八百津に福島の子どもたちを夏休みに呼んで、思いっきり外で遊んでもらう。海旅キャンプという名前で、その保養キャンプは今も続いていて、毎年募金によって開催しているんですね。イベントの収益によって、その保養キャンプの経費を捻出できないかなって思った頃に、たまたま〈RAINBOW 2000〉のプロデューサーだった越智純さんにお会いしたんです。ー〈RAINBOW CHILD 2020〉という名前から、〈RAINBOW 2000〉との関係をイメージしていました。西田 〈RAINBOW CHILD 2020〉をはじめるまで、僕はフェスには行ったことがなかったんですよ。たまたま越智さんと会って、話をして、それでスイッチが入ってしまったんです。今年で5回目の開催ですから、2013年のことですね。不思議な縁だと思います。ーあえてフェスのタイトルを〈RAINBOW CHILD 2020〉とした理由は?西田 僕は〈RAINBOW 2000〉に参加していないし、どういうフェスだったのかも知りません。けれど越智さんとの話のなかで、いろんな問題が世の中にありつつも2000年まで踊り続けようという思いで名付けたということを聞きました。大震災があった後だし、大変な状況が降りかかってはいるんだけど、僕らは2020年まではやろうという意志を込めて、このタイトルにしたんです。ー実際に2014年にフェスをスタートさせました。その踏ん切りはどう自分でつけたのですか。西田 勢いですかね。昔から何事もそうです(笑)。25歳のときに名古屋でバーをはじめたんですけど、そのときも勢いだけでした。バーをはじめたらすぐに大震災があって、被災地に飛んで行った。これも勢いです。やってしまうと、もちろん失敗します。そしてそこからいろいろ学ぶ。

新島という第二の故郷で見つけたかけがえのない時間。【WAX 東京都新島 オオノケンサク】

WAX 東京都新島 オオノケンサク旅する心をくすぐる「島」。船や飛行機でしか行けないという不便さが、その気持ちを大きくしてくれるのだろう。新島という東京の島。そこには大都市・東京とは違う自然が残されている。島の新しい発信としてスタートしたWAX。14回目を迎える今年の夏が、WAXとしては最後の夏となる。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 北村勇祐 photo = Yusuke Kitamuraーそもそも新島と関わりを持つようになったのはどういうきっかけからだったのですか。ケンサク 出身が日体大で、ライフセービング部なんです。僕が大学にいた90年代中盤、日体大のライフセービング部の精鋭たちがアルバイトで夏の間に新島へ行っていました。新島はサーフィンのメッカであり、波も大きい。僕も1年から4年まで毎年。93年から96年です。ー夏の間、長くいることになると、それだけ島の人たちとの付き合いも深くなっていった?ケンサク 夏の40日間だけではもったいないと思って、秋とか冬とかにも勝手に行っていたんです。そしてある家族と仲良くなって、家に泊まらせてもらえるようになって。ーその関係から〈WAX〉へと繋がっていったのですか。ケンサク 大学を卒業して、しばらく海外に行っていたんですね。そして2000年に日本に戻ってきて、数年ぶりに第二の故郷といえる島に戻ってきたら、わずかな時間でしかないのに島の賑わいがずいぶん変わっていたんです。遊びに来る人が少なくなって。それは2000年の震度6弱を記録した地震の影響も大きかったんですけど。僕は海外にいたから地震のことは知りませんでしたが。〈anoyo〉が中止になった地震ですね。それで島をどうにかして盛り上げたいと思って、島で何かをやりたいってことを、いろんな人に話したんです。アーティストで一番最初に声をかけたのはシアターブルックの佐藤タイジさんでした。タイジさんは、何かやるのなら協力してくれると言ってくれて。僕はイベントをやったこともないし、お店をやったこともない。何がいいのかわからないまま、4年間くらい、新島のために何かをやりたいってずっと言っていたんです。ーそして〈WAX〉がスタートした。ケンサク 湘南の辻堂にSPUTNIKという海の家があったんですけど、こういうのが新島にもあったらいいなって思って。人を呼べる何かをやりたい。サーフィンやトライアスロンのようなスポーツのイベントでも良かったんです。だけど、大会だと3日間とかで終わっちゃう。そうじゃなくて、ずっとできることがないかなって。フェスのような、ビーチラウンジのようなものができないのかなって思って。短期ではなく夏の間、音楽の力を借りて続けられるんじゃないかって。それで2005年になったときに「今年だな」って思って、書いたこともない企画書を作って、いろんなところを回ったんです。