世代をつなぐマツリ・カルチャー。【井出 正・教子・天行】

2000年の鹿島槍で作られた「ウーマンズ・ティピ」。男性中心のマツリではなく、女性のための空間が企画された。マツリとしての多様性を保持するために「ウーマンズ・ティピ」が生まれたのは必然だったのかもしれない。都市を脱出した親と都市から戻った2世のマツリ・カルチャー。

文・写真 = 宙野さかな text・photo = Sakana Sorano


ー 2000年に鹿島槍で開催された〈いのちの祭り〉には「ウーマンズ・ティピ」という場所がありました。どんなきっかけがあって、そこが生まれたのですか。

教子 松本にある神宮寺というお寺でプレイベントがあったんです。そこは広島の原爆の火をずっと灯してきたところ。プレイベントは、音楽もあり、ミーティングもあり、出店もあり、小さなマツリのような雰囲気だったんですね。そのときに、女性中心のミーティングの場ができたんです。

お寺の座敷だったよね。

教子 いのちのこと、性のことだったりお産のことだったり、自分たちが悩んでいたり考えていたりすることを素直に口にする、いいミーティングができたんですね。そのなかで〈いのちの祭り〉の会場のなかに、女性のための空間、ティピを作ろうという話が盛り上がったんです。そして会場に大きなティピを用意してもらえることになりました。


ー どんな場所をイメージなさっていたのですか。

教子 いろいろやりたいことが女性たちから出てきたんですけど、基本としてあったのは、子宮のなかみたいな安心の場を作ろうということ。


ー フェスやイベントは、男性目線というか、男性が中心になって構成されることがほとんどだと思います。そんななかで、女性発信の場があることが画期的ですし、新しい方向性を示していたように思います。

教子 女性性は男性性と違う部分があって。すべてを包括するような、そういうエネルギーを女性は体内に抱えていると思います。「ウーマンズ・ティピ」のなかは、とにかく安心で安全な場所にする。男性は基本入らない、女性たちが泊ったりもできるような空間。そこには助産師さんを招いて出産のお話をうかがったりだとか。火を焚いて、みんなでご飯を作って食べたりとか。本当にいい空間になっていたと思います。7日間の開催中は大鹿村の寿満子さんと内田ボブさんのパートナーのみどりさんが、管理人として「ウーマンズ・ティピ」を守ってくださっていました。


ー そのときには子どもも多かったのですか。

教子 中心になった女性は子育て中の母親でした。この子(天行)も4歳でした。赤ちゃんから小さな子どもたちがたくさんいました。子どもを育てているとき、女性にはいろんなエネルギーが生まれてくると思います。子どものいのちを守る。本能的にそれがあるんだなって自分でも感じました。子どもを授かって、子どもを産んで、子どもを育てる。女性にはいのちというものを預かる大事な役割があると思うんです。だから食の安全にも目が向くし、平和のことにも目が向くし、環境のことにも目が向く。いのちを守ることの様々な活動をする女性が多いですよね。そんな子育て中の母親たちは、とても素敵だなって思っています。

正 女性たちが自分たちの心に正直になっていたから、それを知っていた男性は献身的にサポートしていたしね。

教子 男性のサポートがなければ実現していませんでしたから。神宮寺のミーティングのときには「女性たちだけの力でやろう、ティピも女性たちの手で建てよう」って盛り上がったんですけどね。マツリの準備に行って、長くて太いティピのポールを見た途端に「女性だけで建てるのは無理!」って思って。私たちが途方にくれていたのを見ていた男性陣が、「よっしゃやるよー」ってポールを立てて、大きなティピを張ってくれたんです。それはとても手際よく見事で、みなさん嬉々としてやってくれて。そのときに、男と女の役割っていうものがあることをすごく実感したんです。特に山のなかで暮らしていると、力仕事が必要になる男性の役割と女性の役割の違いがはっきりありますから。


ー 「ウーマンズ・ティピ」のような場所は〈いのちの祭り〉の後も続いていたのですか。

教子 2000年の翌年。浜岡原発の近くで原発をテーマのマツリがあったんです。〈平和の集い〉と言ったかな。そこに「ウーマンズ・ティピ」のメンバーがそろうことになって、久しぶりに会えるので、「お茶飲んでおしゃべりしたいね」なんて話していたんです。マツリのスタッフの女性にも声をかけて。それが広まっていって、30人くらいの女性が集まったんですね。自己紹介しながらひとりひとりの思いを話す。それを議論するのではなく、みんなが受け入れて聞く。そういう空間になっていました。それがすごく良くて。翌日には参加した女性たちがとても前向きな気持ちになれたと話してくれて。それから何回か女性たちだけの集いを開催していました。その後もシンガーソングライターの故海老原よしえさんがライブのあとに輪になって思いを分かち合う「ウーマンズ・ティピ」を引き続き開いていました。


ー 今の時代はジェンダーレスが言われていますが、境界を作るとか作らないとかじゃなくて、男性にも女性にもそれぞれが大切な役割があるはず。

教子 役割があるからこそ、お互いが補い合えるんですよね。補い合って、相手のその部分を認めて感謝する。ティピを張ってもらったときにも、自分たちだけではできないことでしたから、すごく感謝しました。そこに男と女のいいバランスがあるんじゃないかっていうことをそのときに実感しましたね。

ー 天行さんは、4歳で参加したという〈いのちの祭り〉のことを覚えているのですか。

天行 小学校に入るまではいろんなところに連れて行ってもらっていました。でも4歳だった〈いのちの祭り〉はほとんど記憶がありません。小学校1年から大学1年までは本気で野球をやっていたため、マツリからは離れていました。高校時代は甲子園に行きたいと本気で思っていたし。「普通」の生活がしたかった。


ー マツリに関しては関心がなかったのですか。

天行 大学時代に友だちと遊びに行ったり旅をしたりするうちに、親のような生き方をうらやましいと思うようになりました。自由に暮らすこと、自然のなかで暮らすことが、うらやましいというか、とてもかっこいいと思って。大学を卒業して金融機関に就職して、3年間はスーツを着て働いていたんですけどね。


ー いわゆるサラリーマンから、今のようなライフスタイルに変わったのは?

天行 マツリにいる人たちの優しさ、愛であったり、マツリにいることの安心感っていうのはもろに感じて育っています。いろんな場所で、いろんな人に育ててもらった。僕は会社に勤めるということも全然イヤじゃなかったんです。でも、表面上の人間関係みたいなところをなかなか崩せなくて。ちょっとなんかなあとモヤモヤしていたときに、大鹿村で大好きな児玉奈央さんのライブがあって見に行きました。大鹿で、かつてマツリで会った人たちと10年ぶり以上に再会してハグして。そのときに涙が止まらなくなって。次の年に会社員を辞めました。僕もMakerになりたいって。


ー 今回の〈いのちの祭り〉では出店管理を担っています。

天行 〈いのちの祭り〉について、いろいろなことは知らないんだけど、強い思いがあります。会社員時代に88年の本『NO NUKES ONE LOVE:いのちの祭り』を母からもらって。その本は僕の宝物になりました。

教子 小さな頃から政治には興味があって、マツリやカウンター・カルチャーに対してもちょっとは関心があるようだったので、「こんなのがあるよ」って渡したんです。そんなに大切な本になるなんて、意外でしたね。

天行 2024年に〈いのちの祭り〉が開催されるのなら、深く関わりたいと思っていました。


ー 24年という時間がもたらしてくれたものなのか、何かが次の世代にバトンタッチされているように思います。

教子 12年に1回の開催が、もしかしたら世代交代をスムーズに進めているのかもしれないですね。

天行 毎年の開催となると、去年よりも今年、今年よりも来年というように、規模を大きくしようって声も出てくると思う。12年に1度くらいがちょうどいいかも。


ー 今年はどんな〈いのちの祭り〉になればと思っていますか。

教子 とにかく楽しみですよね。マツリって、天行が行ってたけれど、人が優しいし、安心な人たちの場所で、安心が約束されている空間だと思うんですね。人との関係のなかで、安心であるっていうことを体感することはすごい大事だと思うんです。それは今の社会、特に都市のなかでは少し難しくなってきているのかなって。私たちの子どもの時代は、町のおじさんやおばさんが安心な存在だったじゃないですか。みんなに守られているのが当たり前で。参加するみんなが安心できる場所が〈いのちの祭り〉だし、特に女性が安心できるところが「ウーマンズ・ティピ」になったらなって。

天行 日本のヒッピー第一世代の人たちも参加するし、広い年代の人たちが集う〈いのちの祭り〉になると思います。争うよりも、平和な空間でありたいですよね。普段僕はコーヒー出店業をしていて、マツリやイベントに出店しています。コーヒーを通して人とコミュニケーションを取ること、そこから平和な社会を創ることが僕の表現なんです。みんなが思いを持って、それぞれが自分の表現をしに、ここに集う。そしてつながっていく。みんなが同じ思いじゃなくてもいいんだけど、違いを認め合って、みんなが主役の平和なマツリにしていきたいですね。


井出 正・教子・天行
1986年に自然に沿った暮らしに憧れ、ふたりが信州の山村の北相木村に移住。 セルフビルドの山小屋で自給自足的な暮らしを実践。家具工房を営み、薪を割り、菜園を楽しみ、音楽を奏で、山の暮らしから感じたことを歌にしている。アコースティックデュオのAMANAとしても活動。息子の天行さんは2000年の鹿島槍での〈いのちの祭り〉に4歳で参加。2022年からAMANA COFFEEとして手作業で焙煎したコーヒーを持って、マツリやイベントに出店している。https://www.instagram.com/amana.coffee

いのちの祭り2024

「ノーニュークス・ワンラブ」を掲げ、1988年に開催された「いのちの祭り」。12年に1度という他には類を見ないスケジュールで開催が継続されている。カウンターカルチャーをベースに、音楽やアートを通じて、いのちの大切さをあらためて確認する祝祭。

開催日:8月29日(木)~9月1日(日)

会場:鹿島槍スキー場(長野県大町市)

出演:喜納昌吉、HIROKI OKANO、China Cats Trips Band、熊谷門、 犬式、MATSUMOTO ZOKU BAND、RaBiRaBi、児玉奈央、やじぃ&かむあそうトライブス、イマジン盆踊り部、スパンコールズ、ほか

※参加協力券(チケット)、駐車券は8月10日にソールドアウト。近隣の宿泊施設やキャンプ場に宿泊してタクシーなどで自力で来場頂ける方のみ、何らかの方法で受け入れられないか検討中。

AMANA 

日時:8月29日  12:20〜@オープニング〜ティピステージ音始め

スパンコールズ

日時:8月31日 20:00〜@信州旅人ステージ

いのちの祭り2024 - INOCHI NO MATSURI

Translated by Googleトップ | Topプログラム|Programチケット | Ticket募集 | Wantedメッセージ | Message宿泊 | Stayアクセス | Access注意事項 | NoticeMore1988年8月1日から8日の8日間、八ヶ岳のスキー場で開かれた「いのちの祭り」は、野外音楽フェスティバルの源流とも言えるお祭りでした。 のべ1万人がキャンプインで集まり、音楽を聴いて楽しむだけではなく、「No Nukes One Love」というテーマに沿って様々な対話や展示が行われました。 環境汚染や自然農法が語られ、マクロビや自然エネルギーに関するワークショップが開かれ、ネイティヴアメリカンのメディシンマンがステージで祈りを捧げ、オープニングセレモニーでは神道の大地の神が降ろされ、神楽が奉納されました。 それは、持続不可能な消費文明とは別の、新しいライフスタイルの実験場であり、ショールームであり、束の間に現れた「ONE LOVE」の理想郷であり、日本のカウンターカルチャーにとって歴史的なギャザリングでした。 その後、1990年に大山、1991年に六ケ所、1999年と2002年にタイ・チェンマイで「いのちの祭り」の名を冠したフェスが開催されましたが、2000年、2012年にはとくに大規模な「いのちの祭り」が開催されました。 そのため、ドラゴンイヤーに12年に一度開催されるお祭りという伝説が生まれると同時に、「いのちの祭り」 は、日本のカウンターカルチャーの代名詞となったのです。 そして2024年。上は88世代の70代から20代まで、住んでいる地域や文化、趣向の違いを超えて、各地の祭り仲間たちが集まり、新たな祭りがつくられようとしています。この歴史的集まりに参加して、共に祭り上ましょう。All Tribes Are Welcome. 生きていることを祝い合おう!いのちの息吹が 集い 歌い 踊る 大地 草や木々 水 太陽 多くの生き物達  星々の輝き 地球 宇宙意識と共に輝く笑顔の祭り 旅する旋律  虹色のビジョン 豊かなる収穫は大地を語り 大自然は命を癒し 星が降り注ぐ様な桃源郷は 祭り全体を包み込み 平和を祈る無数のキャンドルは 未来原始の微笑みを語り繋ぐ 愛らしい瞳が集いあい分かち合い 

いのちの祭り 2024

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