新しい生き方を実践していくための場づくり。【おおえまさのり・わかこ】

60年代のニューヨーク、70年代前半のインド。異国での暮らしや旅のなかでの体験を、映像や本をはじめとした様々なカタチでアウトプットしてきた。その根幹にあったのは「カウンター」としての魂だろう。「いのちの祭り」初代実行委員長として、今につないでいるものは何なのか。

文・写真 = 菊地崇 text・photo = Takashi Kikuchi


ー 1988年の 「いのちの祭り」。「ハチハチ」と今も呼ばれているこのマツリ開催に向かって、動き出したきっかけとはどういうものだったのですか。

おおえ 大きなきっかけになったのは1986年に起きてしまったチェルノブイリ原発事故。それまでも反原発の呼びかけや運動はあったんだけど、あらためて原発事故の恐ろしさを、みんなが受け取った。そして翌年に長野県の大鹿村で、「隠魂(おに)祭り」というマツリが行われました。その後に、部族の人たちとか喜納昌吉らが集った東京でのミーティングで「来年マツリをやりましょう」という声が上がって。88年だから8月8日に行いたい。88並びで八ヶ岳でっていう案が飛び出したんです。今でこそ八ヶ岳にはオーガニックな人だったりオルタナティブな人たちが多く暮らしているけれど、当時はほとんどいませんでした。それから機関紙のようなものを毎月発行して、開催に向かっていったんです。


ー「NO NUKES」が最初から大きなテーマだったのですね。

おおえ 88年の2月に、愛媛県の伊方原発で出力調整試験が行われたんです。これはチェルノブイリ原発事故のきっかけとなった試験です。この試験に反対するために、大鹿村に移住していた(内田)ボブは、ローリング・ドラゴンっていうバンドを結成して、獅子舞の人たちと、高松にある四国電力の本社までキャラバンしていきました。原発に危機感を持ち、なんとか原発を止めたいという多くの思いが、「いのちの祭り」にもつながっていったんですね。九州の甘蔗珠恵子さんという方が書いた『まだ、まにあうのなら』という小冊子があって、それがデモや反対運動する人たちの間で読み継がれていったりとか。


ー マツリというよりも反原発の思いが強かったのですか。

おおえ 単に反原発じゃなくて、どういう社会を自分たちで描き、築いていくのか。原発を必要としない新しいオーガニックな生き方を「いのちの祭り」では提示したいと。当時は少なかったソーラーで電力を作る人やオーガニックフードに関わっている人など、新しい社会を作りたいと思っている人たちが次から次へと参加したいと手を上げ、あっという間に盛り上がっていったんです。


ー なぜそんなに急激に広がったんだと思いますか。

おおえ 「いのちを守るには、新しい生き方をみんなで実践していくしか方法がないだろう」っていう。その思いが大きな力になっていったように思います。ホピ族のトーマス・バニヤッカさんは「アメリカのパスポートで行くのは嫌だ、ホピのパスポートで日本に行きたい」と言うので、その交渉をしたりとかも。そのホピのパスポートというのは鷲の羽なんですけどね。全体が結びつくことで国家も動かしていけるんじゃないか。そんな時代でした。

ー おおえさんは実行委員長として、どんなまとめ方をしていったのですか。

おおえ マツリを成り立させるための経済の感覚や、マツリの内実を構築していく文化の感覚の違い。東京に住んでいる人たちと大鹿村をはじめとする山のなかで暮らしている人たちのギャップ。経済も文化も、それぞれ背景が違いますから、それをすり合わせていく。

わかこ 最初の頃は、誰もが大きなマツリにしようなんて思っていなくて。みんなで集まって共有しようという思いがあったのね。それでいろんなところに呼びかけたら、地域地域で、地道にいろんな生き方を実践している方々がいた。自然農の川口由一さんとはじめてお会いできたのも「いのちの祭り」でしたから。

おおえ 川口さんは、講演会のようなものをやるのは「いのちの祭り」がはじめてだとおっしゃっていました。他にも、沖縄の『戦雲(いくさふむ)』っていう映画を撮られた三上智恵さんの映画の語りに出てきている山里節子さん。彼女も36年前に来てくれました。ステージで演奏するミュージシャンやアーティストだけではなく、参加したい、何かをしたいという方がたくさんいたことで、あのマツリが成立していったんだと思います。

わかこ ただ心配するだけじゃなくて、なんかないだろうか、なんかできるんじゃないか。そういう思いを、みんなが持っていたように思いますね。

おおえ マツリのなかでラジオの放送局を作ったり、新聞を発行したり。八ヶ岳で開催することが決まって、マツリに向けてこっちに引っ越してくる人もいましたから。


ー 「いのちの祭り」の「いのち」が漢字ではなくひらがなになったのは?

おおえ 柔らかさだと思います。漢字になると強すぎるっていうか。誰が言ったのは覚えてないけど、みんなの話し合いのなかでそうなっていったんだと思う。

わかこ すべてが、誰かがこうしろって指示を出して動いていったっていう感じじゃなかったんですよね。みんなで作るっていう。


ー 「いのちの祭り」が実際に開催されて、多くの人が八ヶ岳に集った。そのことについてはどんな思いがありましたか。

おおえ 同じ思いを持っている人がこんなにたくさんいるんだ。そのことに逆にこちらが励まされました。

わかこ こういう生き方をしていいんだっていうことを、改めて受け取れたんですね。自分の嫌なことを無理にやるのではなく、自分がやりたいことをする。こうしたいって自分で思ったことをやればいいんだ。そういう励みになりました。


ー 自分たちの生き方を見つける。これでいいんだっていうことを多くの人と共有する。それは確実に今の時代にもつながっていると思います。

わかこ 36年前に比べると、若い人が自由になっていると感じています。自由っていうか、それぞれが体験しているから、自分の言葉で喋られるようになっているというか。私たちの頃は知らないことが多くて、先達や先輩に教えてもらうっていうことが多かったから。今では八ヶ岳界隈でも新しい農業に挑戦している人たちが多い。有機だったり自然栽培だったりといったそれぞれの自分の視点を持ってね。


ー 「ハチハチ」から36年。この36年という時間をおおえさんはどのように捉えていますか。

おおえ より大変な状況に追い込まれていますよね。僕が大きなショックを受けたのは、2001年の9・11。その後のアメリカの動きを見ていると、60年代から構築されてきたカウンター・カルチャーやニューエイジといった人たちの考え方が、あっという間に簡単に崩れてしまった。アメリカ全体の8割9割が体制側になってしまっている。それがショックでした。今はウクライナやガザでいのちを殲滅するような危機が起こり、核兵器も使っちゃえばいいというような動きもある。ジェノサイド的なことがまかり通ってしまう。このままでは社会そのものの秩序が崩れてしまうと思うんです。


ー そんな状況でもアメリカにおける光明は、コロンビア大学などでのキャンパス内での抗議デモ。60年代のベトナム戦争時代から久しくなかったことです。自分たちで変えたいんだっていう行動。

おおえ 危機感があると思います。60年代のベトナム戦争のときはアメリカに徴兵制があって、自分が戦地に行くかもしれないというリアリティがあって戦争反対の波が盛り上がった。今は人間であることの崩壊というか、世界そのものが崩壊するんじゃないかという強い危機感がある。


ー 今年の「いのちの祭り」では、おおえさんはどんな関わりをされるのですか。

おおえ 今回は後ろで見ています(笑)。「いのちの祭り」に向けて本を制作しています。宮沢賢治が「わたくしは間もなく死ぬのだろう、わたくしといふのはいったい何だ」という問いかけをしているけれど、「自分とは何だ?」ということを突き詰めていくことが、今の時代には一番大事なことだなと思っています。核廃絶運動をしていたバートランド・ラッセルとの対談で「スモールイズビューティフル」のシューマッハーの下で活動していたサティシュ・クマールは「私たちが核兵器から解放されたいのなら、私たちは原点からはじめなければならない。私たちは、すべての生命の根源的な一体性を認識し、それに対する畏敬の念を持たなければならない」という話をしているんです。それと同じ問題が原発にもある。2012年の〈いのちの祭り〉のときに、喜多郎が「今度は原発のない世界でマツリを」とステージで言ってくれたんですけど、あんな福島のことがあっても、原発の再稼働が進んでる。


ー 確かに再稼働だけではなく、新しい原発も作ろうとしていますから。

おおえ 生命の根源的な一体性というものを、ひとりひとりが掴み取っていかなければならない。そういうことをやっていかなきゃいけないんじゃないかな、というのが僕の思いですね。そのためには「わたしという存在は何か?」「今ここに生きているっていうことは何だ?」っていうことをちゃんと突き詰めていく。そういうことを書いた本にしたいと思っています。イメージしやすいように絵本にして。今、それを〈いのちの祭り〉に間に合うように進めています。


ー 絵はわかこさんですか。

おおえ 僕が昔インドで描いた絵。意識の様を描いた絵です。

わかこ 旅のノートに描いていたものなのね。


おおえまさのり・わかこ
1965年に映画制作のためニューヨークに渡り、スピリチュアル・ムーブメントと出会う。70年代前半にはインドを旅してチベット仏教に出会い、『チベットの死者の書』を翻訳し出版。83年に八ヶ岳に移住。〈いのちの祭り〉88年八ヶ岳の1回目と2000年鹿島槍の2回目の〈いのちの祭り〉で実行委員長を務めた。昨年秋『わかこのふしぎの大千世界』(おおえわかこ・画/おおえまさのり・文)が出版された。https://ichienso.web.fc2.com/

いのちの祭り2024

「ノーニュークス・ワンラブ」を掲げ、1988年に開催された「いのちの祭り」。12年に1度という他には類を見ないスケジュールで開催が継続されている。カウンターカルチャーをベースに、音楽やアートを通じて、いのちの大切さをあらためて確認する祝祭。

開催日:8月29日(木)~9月1日(日)

会場:鹿島槍スキー場(長野県大町市)

出演:喜納昌吉、HIROKI OKANO、China Cats Trips Band、熊谷門、 犬式、MATSUMOTO ZOKU BAND、RaBiRaBi、児玉奈央、やじぃ&かむあそうトライブス、イマジン盆踊り部、スパンコールズ、ほか

※公式ホームページでの現金振込方式の前売り販売は8月15日まで。以降はオンライン販売のみになります。

おおえまさのり60年代アメリカのカウンター・カルチャー映画上映+トーク

いのちの祭り@竹ゲル369ハスタクティー

時間:8月31日午後5時~

上映作品:『Great Society』『Head Game』『Salome’s Child』


いのちの祭り2024 - INOCHI NO MATSURI

トップ | Top出演者|Artistチケット | Ticket募集 | Wantedメッセージ | Message宿泊 | Stayアクセス | Access注意事項 | NoticeMore1988年8月1日から8日の8日間、八ヶ岳のスキー場で開かれた「いのちの祭り」は、野外音楽フェスティバルの源流とも言えるお祭りでした。 のべ1万人がキャンプインで集まり、音楽を聴いて楽しむだけではなく、「No Nukes One Love」というテーマに沿って様々な対話や展示が行われました。 環境汚染や自然農法が語られ、マクロビや自然エネルギーに関するワークショップが開かれ、ネイティヴアメリカンのメディシンマンがステージで祈りを捧げ、オープニングセレモニーでは神道の大地の神が降ろされ、神楽が奉納されました。 それは、持続不可能な消費文明とは別の、新しいライフスタイルの実験場であり、ショールームであり、束の間に現れた「ONE LOVE」の理想郷であり、日本のカウンターカルチャーにとって歴史的なギャザリングでした。 その後、1990年に大山、1991年に六ケ所、1999年と2002年にタイ・チェンマイで「いのちの祭り」の名を冠したフェスが開催されましたが、2000年、2012年にはとくに大規模な「いのちの祭り」が開催されました。 そのため、ドラゴンイヤーに12年に一度開催されるお祭りという伝説が生まれると同時に、「いのちの祭り」 は、日本のカウンターカルチャーの代名詞となったのです。 そして2024年。上は88世代の70代から20代まで、住んでいる地域や文化、趣向の違いを超えて、各地の祭り仲間たちが集まり、新たな祭りがつくられようとしています。この歴史的集まりに参加して、共に祭り上ましょう。All Tribes Are Welcome. 生きていることを祝い合おう!いのちの息吹が 集い 歌い 踊る 大地 草や木々 水 太陽 多くの生き物達  星々の輝き 地球 宇宙意識と共に輝く笑顔の祭り 旅する旋律  虹色のビジョン 豊かなる収穫は大地を語り 大自然は命を癒し 星が降り注ぐ様な桃源郷は 祭り全体を包み込み 平和を祈る無数のキャンドルは 未来原始の微笑みを語り繋ぐ 愛らしい瞳が集いあい分かち合い  聖なる霊気は野生の種を 蘇らせ花を咲かし実

いのちの祭り 2024

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