【山崎円城(F.I.B JOURNAL)】言葉の場所を作るためのコミュニケーション。

2003年に結成されたF.I.B JOURNAL。今年結成15年を迎え、春に東京で15周年ライブを開催した。そして今、再び横浜と大阪で15周年記念公演が予定されている。山崎円城が、ノイズ・オン・トラッシュでCDデビューしたのが96年。そこまでにどんな経験を積んできたのか。そしてどうF.I.B JOURNALが結成され、今に繋がっているのか。山崎円城のバックボーンを知るインタビュー。


文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi
写真 = 北村勇祐 photo = Yusuke Kitamura


–––– 音楽、あるいは詩。どんなきっかけではじめたのでしょうか。

 そもそも詩を書き始めたのは、友人の死からだったんです。高校まで川崎の港のほうにいて、ブルーワーカーが多い地域だったんですよね。言葉は悪いかもしれないけどゲットー。親父は絵描きなんですけど、芸術っぽいとか音楽っぽいことがまったくない街でした。当時の川崎は工業廃水がひどくて、そこでヘドロ遊びみたいなことを友人たちと思いついて遊んでいたら、巻き込まれてしまって友人のひとりが亡くなってしまったんです。その自責の念がずっとあって。自分の思いを成仏させるために言葉に変えていったんです。

–––– 創作にあたって父親の影響も大きかった?

 親父が見たものを全部絵で描くような人なんですね。俺は見たものをすべて言葉にしてやろうと思っていました。こんなこともありました。テストを破いたんですね。美観的に破いた。マスと自分が書いている字が気に入らなくて。それで教育委員会に吊るし上げられちゃったんですよ。

–––– 何を考えているのか、わからなかったんでしょうね。

 神聖なテストを破く不届きものがいると。そこから俺を守ってくれたのが和光大学の美術の先生だったんです。彼は「答案用紙を破くのは不届き者ではなく個性なんだ」と。自分たちは何千人、何万人というすごい数の生徒を見てきているはずなのに、テストをここまでするのはこいつだけ。独創的だから、今社会に出るときっと個性を潰される。和光だったら、もしかしたら似たような連中に会えるんじゃないかって。高校を卒業して、何もやる気がしなかったから放浪するつもりでいたんです。その先生がものは試しで和光を受けてみたらどうかって言ってくださって、テストでは何もできなかったんですけど受かっちゃったんです。

–––– 和光大学でいろんな人に会っていったのですね。

 リトル・クリーチャーズとほとんど同期なんですね。詩を誰かに読んで欲しいんだけど、ポエトリーリーディングとか知らないし、そういう文化も知らないんで、壁にタギングしていたんです。壁に詩を書いていた。音楽もリトル・クリーチャーズがはじめて僕の音楽を面白いと言ってくれて。当時、レコード会社にいるディレクターの人に聞いたら、「この斬新な音楽を世に出すには、まだ時期が早すぎるけど、チャンスが来るからもう少し状況が変わるのを待ちなさい」というようなことを言われました。やっているうちにクラブムーブメントが盛り上がってきて、クリーチャーズとダブルフェイマスが始めたイベントで、ライブをやらせてもらうようになった。それと並行して、横浜高島屋前の路上でバンドでストリートライブをやり始めたんです。そのライブを見たサムズアップの佐布さんが拾ってくれて、外でライブをやるようだったら中でやれよって言ってくださって。ストーブスが出来たての頃でした。それがクリチャーズの栗原(務 )とのノイズ・オン・トラッシュの初めなんです。

–––– それが20代前半のこと? 

 そうです。

–––– どんなスタイルだったのですか。

 音楽の作り方がヒップホップに近くて、親父がオルガンを一緒に拾いに行ってくれたこともあって、あるものを使って音楽にするっていう手法をしていたんですね。例えばデトロイトにあったテクノだとかヒップホップの創世記と同じ。だから音楽の衝撃を受ける前に自分の形が出来上がっていて。自分を打楽器に捉えればどこでもセッションしていけるなって気づいた時から、今の形になったんですね。今もメロディとかコードとかはあるんですけど、自分は弾けるものをサンプリングとして弾いている。本当はギターも人に任せたいんですけど、わりと僕のギターが好きだって言ってくれる人が多くて、それでなんか今もギターを握っているような感じなんです。

–––– じゃあ音楽を始めるという意識はあまりなかったんですね。

 そうなんです。

–––– いわゆる音楽キャリアとしてのデビューはノイズ・オン・トラッシュだったのですか。

 そうです。96年、26歳の時です。

–––– 詩を表現するアウトプットのひとつがメロディでもあったということですか。

 詩の表現というより言葉の表現っていうんですかね。そのひとつとして壁のタギングを衝動的に始めたりだとか。多くの人に見てもらうにはどうしたらいいのかっていうところから始めているんです。悪いことだっていうことを無視して、街に思いっきり書いてしまえばいいんだっていう。ポスターにしていっぱい貼っていけばいいんだとか。ポストカードとかフライヤーとかがお店にあまり置いていなかった時代に、ポストカードにして、フライヤーですって言ってお店に詩をどんどん置いてもらっていたりだとか。電話ボックスに貼って回ったこともありましたね。言葉の場所を作るための活動の一環。でもポエトリーリーディングというものに対しては違和感があったんです。なんか自分が思いの丈を語るみたいなものがあって、なんか違うなって思っていて。それでクリチャーズの青柳くんとよくやっていたのが、この本のここの部分がすごく面白くてさっていうのをお互いに語り合うこと。言葉を行き来させる。智の共有としてのオープンマイクなら面白いんじゃないかって。それでやり始めたのがブックワームなんです。およそ20年、智の共有という部分でやり続けています。

–––– 音楽のスタイルだけではなく、スタンスも変わっていないんですね。

 言葉のための場所を作ろうと思ってやっているんです。ただ自分の気持ちを吐露するような形は、なんかちょっと違うなって思っていて。そこにいる、集まった人たちとのコニュニケーションの一環で言葉がある。言葉には面白い形があるし。今、交換で詩集をリリースしているのも、面白いことと経済にすることって違うっていうことに気づいてからなんです。本も詩集というスタイルがもう廃れているし、そしたら違うことをやった方がいい。そういうことを作っていくことが自分の役割なんじゃないかなって。詩集も音楽もお金にしようと思うから難しくなってきてしまうけれどものにだったら変わるんじゃないかって思って。お金じゃないものに変えようと。

–––– 例えば詩の表現のスタイルとしてビートが近いように感じるのですけど、先達を見習ったとかはあるのですか?

 それがないんですよ。拡声器もNHKでライブをすることになって、なんか目立つことを考えなきゃと思って、ラジカセを持って行って、ラジカセをギターのアンプ代わりにして、拡声器でポエトリーをやるっていうところからはじめたんです。後からトム・ウェイツのことを教えてもらったりだとか。寝ないでいろんなところを旅したり、見たものを全部言葉に変えようと思ったり。自分がおかしな人間なんじゃないかと思って友達に相談したら、お前よりも先に似たような人がいるからこれを読んでみろって言われたのがジャック・ケルアックで、それで初めて読んだんです。影響されたというよりも共感に近い感じですか。あ、こういう人もいたんだっていう。トム・ウェイツもテープレコーダーを使ったりだとか、古い拡声器を使ったりしているのを見て、「これ聞いたことある?」って聞かせてもらって初めて衝撃を受けたというか。近いようで遠い、遠いようだけどどこか近いなあと思います。

–––– F.I.B JOURNALを結成した経緯を教えてください。

 ノイズ・オン・トラッシュで、まずはクリチャーズが作ったMIDIのレーベルからリリースしてそのレーベルごと東芝のレーベルに移籍したんですね。時代が打ち込みという流れがあって、少しエレクトロの方向に生バンドも傾いた時期があったんですね。例えばベックが出てきたりだとか、ケミカル・ブラザーズが出てきたり。リトル・クリーチャーズがそっちに流れて行って、僕自身はウッドベースとドラムのブラシと拡声器というスタイルでした。時代がエレクトエロに向かっていく中にあっても、俺はそういうことをやりたくない。ある種バンドの中でも戦いみたいになっていったんです。自分をミュージシャンにしてくれたようなところから出て行かないと、シーンに埋没してしまうかもしれないなって思って。それでバンドから離れたんです。そしてソロプロジェクトをスタートさせることになって、それがF.I.B JOURNALの始まりなんです。

–––– 90年代から2000年代に入った頃というのは、音楽シーンとしては状況は悪くない時代。

 2003年にF.I.Bをやり始めて、2005年に舵を切り始めたんですね。

–––– その舵を切ったというのはどういうことなのですか。

 レーベルから離れて、個人でやる時代なんじゃないかなって思って。僕がプレイング・マネージャーになってやるっていうふうに舵を切ったんです。一回CDを出すことをやめようと思ったことがありました。CDを出さなくっちゃいけないという活動自体がオールドスクールだなって思い始めて。公開レコーディングのアイデアが出て、曲作りから全部人に見せてしまって、ライブの過程としてみせる。お客さんに全部見せたなかでレコーディングをして。来てもらった人にはCDが付くっていうふうにして。そうすると来てもらっている時点で100人くらいいるから、レコーディングフィーがリクープしちゃうんですね。

–––– CDとしての形を残すのにも疑問となっていうのはどういうきっかけがあって?

 なぜ公開レコーディングにしたかというと、レコードっていうものは作品として残すののはトゥーマッチなところも過ぎてしまったと思って。みんなそもそもCDの背景にあるのが、サイレンスであることに疑問を抱かないのかなって思ったんです。そこも考えていないし、レコーディングスタジオで録らなくっちゃいけないって思ったり、サイレンスじゃないきゃいけないって思っていたりっていうことをみんな考えないでそうしていたじゃないですか。それ自体がきっとアーティスト活動ではない。それは二番目三番目の人のやることだと思って。自分がどういうふうに音を欲しがるかなって思った時に、例えば2000年代初頭の東京の音を2000年代後半に聞いたとしたら、俺は雑音を聞きたいなって思ったんですね。今ここで喋っていることもそうですし、後ろで音楽がなっていることも、上から俯瞰した写真だったらアンビエントとしては成立するじゃないですか。だから俺が作るのはレコードとしての記録であって、芸術でも商品でもない。だから記録として時代を切り取っていくんだって思って。ストリートスナップを撮るような感覚で時代を録ろうと思って。そう思ってやり始めたんですね。

–––– 話す詩も変わってくるわけですよね。

 変わります。それで英語にすることを止め始めました。一番英語が打楽器になりやすから。音としての音楽でやり始めてきたので、英語を打楽器としのセッションする。自分をコードの中から自由にさせるためにそういうふうにやっていたんです。

–––– F.I.B JOURNALがスタートして、表現形態が少しずつ変わっていったのですね。

 CDに特典をつけなければ売れないとか、特別な展開を店舗でしなければならないとか、そういうことをやることによって枚数は出ていたんですけど、なんかちょっと違うなって思うようになっていて。それも舵を切る大きな要因でした。それこそフェスのあり方なんかも見ていてすごいなって思うのは、フジロックにしても、みんなが山の中に価値を求めていくわけじゃないですか。実際に音楽ってそうならなくちゃいけないなって思って。本当に素晴らしいものであれば、届くんじゃないか。確かにプロモーションをしたりセールスしたりすることもとても重要ですけど、農夫だったらまず畑をしっかり耕すことを考えた方がいいんじゃないかっていうように思ってしまって。ある時にCDってデータじゃないかって気づいたんですよね。ものじゃないなって思って。公開レコーディングで始めたのは、体験を持ち帰ってもらえれば愛してもらえるものになるんじゃないかって。体験したことが記録になりますよね。

–––– 作品という感覚を多くのミュージシャンが持っている思います。円城さんは作品という感覚ではない?

 CDも作品とは書きますけどね。自分のことを芸術家とは思っていなくて。作品を出すというよりは、コミュニケーションのひとつとして音楽をやりたいんだと思っているんです。もちろん本を作る時にはちゃんと自分の美観の中で、見やすいように、さらに尖ったようにデザインをするという仕事もありますけど、コミュニケーションなのか作品なのかって聞かれたら、僕の中ではコミュニケーションのひとつなんです。

–––– 書いている詩はどうなのですか。

 詩集の中に「私」という単語はほとんど出てこないんです。自分の主観が出てこなくて、俺は町の言葉屋さんだと思っているんです。例えばここに行くと、ここにしか味わえない食堂があるよと。それと同じに、あそこに行かないとあの人にしか掴めないような言葉があるよっていう。町の詩屋さん、町の言葉屋さん。都会で暮らしていてやりたいのは、田舎の自給自足ではなくて、東京で自給自足したいんですね。それで僕が掲げているのが言葉屋さんということ。気持ちいい音楽とか、魔法の言葉みたいなものっていうのは、宙に漂っていて、それを掴める人が掴む。掴んできた形だからその人の形にはなりますけど。だから本当に一握りの短い言葉、子どもにもかけるような言葉で、大人に書けないなものを描きたいっていう思いがあって。言葉って経年だと思っていて、石みたいなものだと思っているんです。「私は横浜にいます」。この3つの言葉の配列みたいなもので空気の流れが生まれる。3歳の子どもも言えるけど、3歳の子どもと70歳の人が言ったことって意味が変わるじゃないですか。その言葉をギューっと一度燃やして、燃やして残った一握りの短い水だけにしようと思って。燃えなかった水を詩にしているんです。

–––– その作り方はずっと変わっていない?

 ここのところ急にそのシフトにしてきたというか。自分がメッセンジャーなんだって気づいてからそうなりました。それは平たくインターネットの世界が広がっていることもあると思うんですけど。

–––– インターネット時代の言葉。存在そのものがあやふやになっていると思います。それを音とリンクさせて表現している。それがアルバムでも表現されている。

 ようやく少しだけ、そういうことがうまくできているのかなって思っていて。『多様性に住み』はすべて仮歌なんですよ。ちゃんと歌入れしていなくて。仮歌をそのまま残しちゃった。歌を歌おうって思うと、急に田んぼに苗が植わらなくなってしまうというか。今はこう話していることもちゃんと植わっているんです。そこで見ている言葉が水にしみたり土に行っているので、今こうしてひとつの田んぼの中に言葉を植えて、共有しているんですけど、歌にすると急になくなっちゃうんですよね。それをちゃんと人の心に、言葉を植えることを意識してやりましたね。だからどういう理由で言葉として立つようになったのかは、ちょっとわからないんですけど。水があるところに植わっている、普段の会話とか、そういう気分で喋っている。

–––– 『多様性に住み』を作ろうと思ったきっかけはどういうものだったのですか。

 作ろうという気持ちは持っていなくて。CDという形の時代ではないなって思っていたんです。ある時にピアニストのトウヤマタケオさんと大阪でライブが一緒になったんですけど、東京にあまり行くことがないから行きたいんだって言ってきて。それでライブを企画したら直前になってインフルエンザになったから行くことができなくなったと連絡が来て。それで急遽、武田カオリさんが来てくれることになったんです。お願いして一緒にライブをしてみたら、すごく良くて。俺たちは花瓶だったんだなって思って。俺たちは入れ物だったんだって初めてその時に気付いたんですよね。自分たちが花で、その花はモノクロでどうかなって思っていたんですけど、花が入ったことによって、自分たちは無骨な花瓶だったということを知って。誰かをたててやったほうが、俺たちのバンドは良くなる。そう思って彼女に歌ってもらうつもりでゼロから曲を作って、彼女をフィーチャーして、最終的にはリリースパーティーで女性をフィーチャーするから盛大にしたいからオーケストラ編成でライブをするというところまでのプランができあがったんです。せっかく来てもらうんだったら、すごくオールドスクールなやり方だけれども、ちゃんと形として残すものとしてのCDを作ろうと。データの時代ですけどものとして自分たちのために残そうと。ちょうど活動15年になるから、どうもありがとうございましたっていうことでもいいんじゃないのかなって思って、自分で買って誰かにプレゼントしてもいいし、そういうものでもいいんじゃないかって。例えば近所のおばさんが畑で野菜を作って、「これ美味しいんですよ、食べてください」っていうのと同じに、「俺、家でこう言う音楽を作れたんですけど、もしよかったら聞いてもらえますか」って近所の人に配ったことがあったんです。このCDもそれでいいのかなって思って。

–––– 新作がCDという形になって、どんな感覚がありますか。

『多様性に住み』っていうタイトルにしたんですけど、世の中が単色に向かっていると感じているので。だから自分たちが光を集めてくるっていうのを、これからしていかなくちゃいけないって思っているんですよね。ささやかながら、自分がその役割を、自分ができる限りで担っていきたい。その気持ちが詰まっているのです。全部の工程をほぼひとりでやっているので、できあがってうれしいですよ。手間暇かけるくらいしか、自分の得意技はないなと思っているので。CDを扱ってくれる人もそう。CDショップは売れるものだけをあつかっていると思っていた時代もあるんですけど、そうじゃない人もいる。違う種類の大根を並べる八百屋さんもあるじゃないですか。人と出会うということであれば、それはひとつのきっかけなんじゃないかと思って。パン屋さんでも置きたいと言ってくれたところがあるんです。そこに置きに行って一緒に飲んできたりして。そんなことをすることが、自分の人生が少しは豊かになるんじゃないかなって思っています。

–––– 確かにCDだからといって、CD屋さんだけで流通させるということもないわけで。

 このCDがなければ、パン屋さんの中でパン屋さんとお酒を飲むこともなかったわけですから。コミュニケーションのひとつとして音楽がある。もし1万枚のCDを売るためには、10万人に会わなくちゃいけないなって思っているんです。僕の人生はそういう人生にしたいなって思っているんですね。ひとりずつ密に会えるかどうかわからないけれど、とにかく音楽や言葉っていう手段で、とにかくたくさんの人に会いに行ってやろうと思っています。

–––– そう思っていることが素晴らしいと思います。

 単純にそれが好きだからっていうことなんです。売れてどれだけ有名になったかっていうのは、みんなが思っている尺度でしかなくて。でも俺の人生っていうのは自分の尺度で見るべきだって思っていて。なんとか暮らしていければ、あとは友達が多ければ多いほどいいだろうって。音楽をきっかけに誰かと知り合いたいなって思っています。だから作品というよりはコミュニケーションのきっかけ。自分がこんなことをしている、あんなことをしているって口で言うのは虚しいじゃないですか。今の自分の一番アップデートしたものを人に聞いてもらうために、作品という形をとらせてもらっているんです。作品だと説明不要だし。もちろんどんな会場でもご縁があれば行ってライブをしたい。そこに関わる人たちとのご縁なんで。何千人の会場でもやりたいし、ひとりふたりの会場でもやりたいなって思っています。


Profile;
1990年頃よりグラフティやダギングなどの手法で、公共の壁を使って言葉や詩を発表しはじめる。2003年に真船勝博、沼直也とのトリオでF.I.B JOURNALを結成。ポエトリー・ジャズ、あるいはジャズ・パンクと称されている。『紙よさらば』まで10年で5枚のアルバムをリリースした。2013年に等価交換で詩集をリリース。結成15周年を迎えた2018年1月、TICAの武田カオリをボーカルに迎え、アルバム『多様性に住み/ DAYS365, Standing On The Conner』をリリース。20年続くフリースタイルのリーディングイベント「BOOKWORM」の主宰も務めている。

F.I.B JOURNAL15周年記念公演横浜

開催日:11月9日(金)

会場:Thumbs Up 横浜

出演:Orquesta F.I.B JOURNAL meets 武田カオリ、F.I.B JOURNAL DUO+1

F.I.B JOURNAL15周年記念公演大阪

開催日:12月15日(土)

会場:The Good Thing 大阪

出演:F.I.B JOURNAL DUO+Guest Musicians

取材協力/新丸子Powers

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