【OJO】グレイトフル・デッドの音にプラスされたサイケデリック・アート。

カセットにコピーされ、人から人へ渡って行ったグレイトフル・デッドのライブ音源。アルバムジャケットのように、ひとつひとつの音源に「絵」があったのなら…。切り取られた瞬間が、永遠に変わっていく。

文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi


ー グレイトフル・デッドを聞きはじめたのはいつ頃でしたか。

OJO 1973年にデッドに出会って。「ダークスター」を友だちに聞かされてさ。そのときに「このギターの人に一生ついて行こう」と思ったんだ。ジェリー・ガルシアのギターの音をずっと聞いていきたいと。それがはじまり。


ー ジェリー・ガルシアやサイケデリックの絵を描くようになったのは?

OJO 亡くなってしまったトシロウくんというテーパーと知り合って、彼からデッドのアメリカの音源が回ってきてさ。トシロウくんは70年代後半にアメリカに行って、78年の大晦日の「クロージング・オブ・ウインターランド」ではじめてデッド体験したんだよ。帰国してからも、デッドの最新の音源をカセットテープでアメリカから送ってもらっていた。アルバムのジャケットじゃないけど、1本1本のカセットテープにもジャケットがあっていいんじゃないのって思って描きはじめたの。そしたらジャケットつくりにハマっちゃってさ(笑)。


ー 何作くらい描いたのですか。

OJO 87年頃から描きはじめて、今は手元に200ぐらいしかないと思うんだけど、600か700はつくったよ。

ー OJOさんが描いたジャケットのカセットテープが、日本の、そして世界のヘッズに渡って行ったんですね。

OJO 当時はデッドの画像がほとんどなかったから苦労したよ(笑)。カラーコピーも高くて。


ー 実際にOJOさんがデッドを体験したのは?

OJO 90年のカウントダウン。ジェリーの体調が悪くなっているから、体験できるのは今しかないから一緒に行こうよって誘われて。心のどこかに、デッドを見るのが怖いっていう気持ちもあってさ。でも体験したら、ステージにいるメンバーから、会場の雰囲気をつくっているデッドヘッズから、こう言われた気がした。「俺たちをなめんじゃねえよ。俺たちはずっとサイケデリックなんだから」と。「参りました」ですよ。地獄の沙汰まで全部見ちゃったって感じてさ。いつ死んでもいいやって思った。本当にデッドを見られたことに感謝だよ。


ー 絵はテーマを決めてから描かれるのですか。

OJO 全部、行き当たりばったり。基本的にはふたつの絵を組み合わせている。異次元のふたつを組み合わせることで、ひとつの新しいものが生まれるっていう。シュールレアリズムの絵に「解剖台の上のミシンとコウモリ傘」ってあるじゃない。その発想。


ー 完成形は見えているものなのですか。

OJO 切って、貼り付ける。切ったときに後ろに何が見えるくるのか。それがテーマになっていくのかな。後ろに何が見えてくるのかが自分でも楽しみで。


ー ある種のサイケデリックアート?

OJO サイケじゃないと興味がないね。ひとつひとつ、見えてくるものが違う。だから楽しい。楽しくなかったら、こんな細かくて、バカらしいことはやってませんよ(笑)。


ー ジェリー・ガルシアが逝ってしまってもう少しで30年。今もなお、多くの人がジェリーに心酔しています。

OJO 精神的な世界観を感じることができるよね。ある意味では、現代の本物のブッダかもしれない。死んでからも、これだけ多くの人を遊ばせてくれるわけだから。俺の絵を気に入ってくれる人がいるのなら、それは俺の絵がすごいんからじゃないんだよ。俺を、俺たちをここまで遊ばせてくれる、人生を楽しませてくれるジェリー・ガルシアって人がメチャクチャすげえんだよ。そんな人物、ほかにいるかい? あなたにそんな人がいますかって聞いても、ほとんどいない。グレイトフル・デッドに出会えたから、人生に悔いはないよ。


OJO
インターネットがない時代。グレイトフル・デッドの情報は、ライブが録音されたカセットテープと、たまに掲載される雑誌の記事。少ない情報のなかから、音源をビジュアル化してカセットのジャケットを製作していった。現在も多くのデッド系イベントのフライヤーを手がけている。原画は国立地球屋に掲出されている。

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