【Piko KAMON(Beat creator)インタビュー】ラビラビから次のリズムの旅へ。

2006年から、azmi、Nana、Pikoというトリオで音を響かせる旅を続けてきたラビラビ。年間100本以上のライブを行い、11年でライブの総数は1300近くを数えた。2017年6月に体調不良を理由にPikoが卒業を表明し、3人でのライブは年内で終わると発表された。最後の音の旅の場所になったのが12月23日に川崎・元住吉Powers2の「MUSICA GRAVITY vol.2」。この日のリハーサルを終えたPikoに過去、現在、未来を聞いた。


文=菊地 崇 text = Takashi Kikuchi
写真=Kuni Matsumoto photo = Kuni Matsumotoi


ラビラビ以前

–––– まずプロフィール的なことからお聞きしたいと思います。ラビラビに入る前はどんな活動をしていたのですか?

PIKO なんて言ったらいいかな。フリーパンクジャズみたいなアバンギャルドなバンドをやっていたんです。基本は即興で、ノイズパンク系のベーシストと僕。そこにその時々で違うメンバーが入って。HEIBON JAZZというバンド名なんです。

–––– 今でもHEIBON JAZZを検索すると出て来るのですか?

PIKO どうかな、ないかもな。でもそのバンドは、実は今でもあるんです。ラビラビをやりだして10年くらい、ラビラビの活動から考えたら同時進行で活動するなんてことは到底できないので、「ちょっとごめん」って言って待っていてもらっている状態なんですよ。終わっているわけではなく休止中。その前の大阪時代は僕はずっとドラマーで、セッションドラマーって言ったらいいのかな、そんな活動をしていたんです。大阪なんで、ドラムで仕事が来れば、なんでもやっていたんですよね。オリジナルバンドもやりつつ、バックバンドとしてツアーをしたりレコーディングしたり。いろいろやっていましたね。

–––– 若い頃からミュージシャンとして?

PIKO 10代から続けていて。だから僕はずっとドラムでやっていて就職をしたことがないんですよ。たまたまなんですけどね。もちろんバイトはしましたよ。でも本当に自分の好きな音楽だけで生活できたんは、ラビラビが初めてですね。それまでは仕事だから音楽を選べないじゃないですか。これはちょっと自分には合わないと思っていても引き受けなきゃならんし。それをやりながらオリジナルバンドをやっていたんです。そのオリジナルバンドは、まったく食べていける状態ではなかったし。僕はラビラビに2006年に入ったんですけど、完全にラビラビだけになったのは2009年か2010年のことで。

–––– ラビラビの最初の頃は他の活動もなさっていた?

PIKO バイトしながらやっていましたね。最初にaz3(アズミ/ボーカル)が2007年か2008年にやめて、その後に僕がやめて、そのすぐ後にNana (ドラム)がやめたから、2010年には3人ともラビラビだけで、やっているのかどうかっていうギリギリ感で(笑)。そのギリギリ感のなか、2017年末まで走ったということ。よくあったのが、今日東京でライブがあったとします。次の日に山口でライブがあって行かなければならない。今の時点で山口までの交通費がないとか。「どうする?」「今日、物販を頑張って稼ぐしかないでしょ」って。こんなことばかりでしたから。このギリギリ感が、最初はドキドキやったんだけど、途中からは人間はなんとかなるもんやなって思いながら。そんな思い出はラビラビにはいっぱいありますよ。

2006年から続いた旅

–––– どういう経緯でラビラビに入ることになったのですか。

PIKO もともと僕とaz3が大阪時代にバンドを組んでいたんですよ。az3のオリジナルバンドです。結局、そのオリジナルバンドでコンテストに出たら優勝しちゃって。それがきっかけで東京の事務所からオファーが来て、メジャーデビューということで東京に出てきたんです。

–––– メジャーでデビューなさっているんですね。

PIKO 実はこそっとしているんです(笑)。AZUMIっていうバンド名でした。そのバンドは3年くらいで解散したんですけど。

–––– メジャーデビューしたということはポップな音だったのですか?

PIKO ポップなロックバンドです。どちらかといえば、アラニス・モリセットとか、日本でいえば椎名林檎がガンガン流行っていた時代。スリーピースバックのボーカルというスタイル。他にギターとベースがいました。そのバンドが解散して、az3がラビラビをやり始めたんです。最初は違う女の子とのユニットだったんですけど、その女の子が抜けてNanaが入って。それが2001年なんですけど、今のスタイルに近い音楽をやっていた。僕はその頃からサンプラーとか打ち込み系がおもしろくなって、自分で作ったリズムトラックをラビラビに提供していて、az3がそれをコラージュしてアルバムを出したりしていたんです。2006年にカナダの友達が、モントリオールで小さなフェスがあるからそれに来ないかって誘ってくれて。az3が「行く」ってふたつ返事でオーケーして、もうひとつシカゴで友達がバンドをやっていて、そこに連絡を取って、とりあえず2本のライブを決めて。それで北米に行こうってなった時点で僕も入ることになって。そのときはもうひとりトランペットの人がいたんですけど、4人でツアーに行って。行ったその旅でaz3が「最高、私はこれから旅をする」って帰りの飛行機で言い出したんです。

–––– 音の旅が始まったわけですね。

PIKO そして年間100本くらいライブをやって日本を巡るって宣言したんです。僕は「本当にやるん?」なんて言ってたんだけど、本当に動き始めて。az3ってすごい人で、そこからネットや電話を駆使して調べ上げて、とりあえず自分がおもしろそうと感じているところすべてにアタックして、出させてくれってお願いして。2007年から旅を始めて、本当に年間に100本以上続けてきていて。

–––– それが2017年まで続いていました。

PIKO 一番多い年は160本近くやりましたから。この本数だと2日に1ライブやっているような感覚です。やり続けて、ついに1300本を超えていますね。まさかこんなに続くとは思っていませんでしたよ(笑)。最初の2〜3年を過ぎたら変わっていくと思っていたから。AZ3は未だに言うもんね「旅はおもしろい」って。

–––– 今でも、自分で連絡してという同じようなスタイルなんですか。

PIKO 途中から多くの人がラビラビのことを知ってくれて、さすがにいっぱいオファーをいただけるようになって。2010年に食べていけるようになったというのも、多くのオファーをいただけるようになったからなんですね。

–––– ラビラビ旅をずっと続けているお手本のようなバンドじゃないですか。

PIKO 確かに旅っておもしろいんです。テレビやメディアなどで伝えられている日本とリアルな日本ってこんなに違うものなのかってわかる。日本人って単一民族で同じような発想をしているだろうって言われているけれど、人数は少ないかもしれないけど、おもしろい人ってめっちゃおるんですよ。素敵な人もいっぱいおる。こんなところにって言ったら失礼かもしれないけど、そう思えるところにこそ素敵な人が暮らしている。そんな人たちに出会えたことがすごく大きな財産になっていますね。食べ物に関しても、うちの味噌汁はすごく充実しているんですよ。出汁に使う昆布は宗谷岬のものだし、鰹節は高知のどこどこのやつで、味噌は千葉の1300年続く農家さんの、千葉原産の完全無農薬の大豆で作ったものだし。そういう強力ないいものと出会えるんですよね。これは本当にすごいなって思っていて。

–––– どんな要因があって出会えているんですか?

PIKO たぶんそれは、az3がもともとナチュラルというかオーガニックというか、そういうものに近い存在だというか。普通に山と会話したり石と会話したりするんです。いろんなものが見えたりする人なんですけど、同じベクトルの人と出会うアンテナがあるんですよね。出会うためにきっと交信しているんですよ。人でも自然でも。だから引き寄せ合うんだろうなって思う。僕はある意味ではどうでもいい部分が多いんです。例えばコンビニでご飯を買っても問題ないし、気にしない。ラビラビはaz3の生き方というか、それがすごく現われていると思うんです。ただなんでドラムふたりとボーカルというユニットをやろうと言い出したのかは、今持って不思議なところやなって思っていて(笑)。

–––– PIKOさんにとって、ラビラビとはどういう存在だったのですか。

PIKO 自分の一番やりたいことで生きていけることができたバンドかなあ。やりたいこと以外、一切やらなかったから。そんなことってなかなか難しいと思うから。

–––– そうですよね。音楽を続けていても、やりたい音楽と違うこともあるかもしれないし。

PIKO 僕らはメジャーでもないし、事務所に入っていないし。CDを作るのもツアーを組みのも、全部自分らでやっている。それでやれていけたのがすごいことなんだなあと思います。

–––– この10年って、いろんなところでライブがやれる環境になってきましたものね。

PIKO ライブハウスだけが音楽を鳴らせる場所じゃないんだってことが当たり前になってきた。

–––– 20年前、30年前は、ライブハウスやコンサートホールだけといっても過言ではなかったわけですし。

PIKO そこでライブをすることが目標でしたから。他も考えられなかったし、野外のイベントも少なかったですし。ノルマを払うことでやらせてもらえたっていうおかしなシステムのなかでのライブ。それが普通だと思っていましたから。

–––– 特に記憶に残っているライブってあります?

PIKO 2007年にラビラビの旅が始まったすぐの頃に、九州のお祭りに呼ばれたんです。正式に声をかけてもらったのが開催の一週間くらい前。

–––– そのお祭りとは?

PIKO <虹の岬まつり>です。最初にお願いしたときはダメって言われていたんですけど、ひとつバンドのキャンセルがあって、「タイムテーブルが空いたから来る?」って言われて。まだバイトをしていた時期で、しかも僕とNanaはバイトでも優秀チームで、この人が来なかったら困るやろ、みたいな存在だったんです(笑)。行きたいけど、直近過ぎてバイトも休めない。だけどこの祭りに出るか出ないかで、大きく未来が変わるかもしれない。その分かれ道やな、みたいに話していて。で、結局は行ったんですよね。僕らが出演した日が偶然満月だったんですよ。僕らのライブの時間は夕方の予定だったんですけど、押してちょっと遅くなってしまったことで、僕らがステージに立っているときに真後ろから満月が昇ってきたんですよ。すごいタイミングで。

–––– PIKOさんはその光景を見ていたのですか。

PIKO 演奏しているときは集中していて、ステージから見えていたのかどうかわからなかったのですけど、終わったら満月が昇っていました。そのときは、誰もラビラビのことなんて知らないです。ライブ前には「誰、この人たちは?」みたいな空気が漂っていました。3人でやってそのときに、CDRで音源を持って行ってたんですけど、終わった後、買うための行列ができたんです。何十枚と売れたんですけど、アリシア・ベイ・ローレルさんもその列に並んではって、そこから仲良しになって(笑)。後からラビラビらしい旅の始まりのライブやなと思いましたね。

–––– 旅することで得たものって何ですか。

PIKO 音楽的には日本中の大地からもらえたものがあったと思います。

ビートクリエイターとしてのスタンス

–––– PIKOさんの今のドラムセット、例えば湯たんぽを使ったりだとかは、ラビラビの旅を始めてから使うようになったのですか。

PIKO 僕がラビラビに入る前、まだふたりでライブをしているときに飛び入りで遊びに行ったことがあったんですよ。その頃、ドラマーはライブハウスに出るときにはみんなそのお店にあるドラムセットを使い、同じPAの人で。ドラマーが変わったとしてもみんな一緒に聞こえてきていたんです。もっと自分らしい音って出したいよなってすごく思っていて。そんなことを思っているときに、街を歩いていたら燃えないゴミのなかに一斗缶を見つけて、これどんな音がするのかなって思って叩いてみたら、けっこうおもしろい音だなって感じて。最初に一斗缶をステージに持って上がって、Nanaの横でバシバシバシって思いっきりやりまくって。それがスタートだったんです。だから僕のセットのスタートは一斗缶。そこからウォーターボトルを見つけたりだとか、いろんな楽器を見つけたりだとかして増えていって、今のスタイルになったんです。

–––– いわゆるドラムセットのものじゃないですものね。

PIKO そうですね。大太鼓はバスドラムなんですけどね。それを上に向けているだけ。バスドラムをキックではなく手で叩いたら、低い音でも違ったものが表現できるかなって思って。

–––– 叩く場所によっても音は変わるわけですし。

PIKO しかもNanaがバスドラムを足で踏むから、同じことをやってもしょうがないし。僕とNanaのリズムは、お互いに相手がやっていないことをするというような関係なんですよ。発想としては、DJの人に近いと思うんですね。トラックを作る人って、フェーダーがあったら、ここで上げて下げてっていうのがあると思うんです。僕とNanaのふたりがリズムをやっているのではなしに、全部をひとつと考えて、そのバランスをどうするか、みたいな。そうやっているとDJの人がやっていることもすごくおもしろいなと思っていて。ツインドラムとかスリードラムとかパーカッションが入るとかしても、結局はドラマーって独立した個々なんですよね。合うときはすごくいいんだけど、合わなかったら、例えばガチャガチャするだけになってしまう。気持ちいいグルーブって、僕はバンドはワングルーブだと思っているから、グルーブが気持ちよかったら、俺はここでは何もしなくてもいいわとか。そんなほうが、聞いている側、踊っている側にとっては楽しいのかなって。

–––– ドラムってケンカしちゃうことがありますもんね。どうも乗りにくいというようなことがあります。

PIKO お互い我が出すぎてしまうとか相手の音を聞かないとか。ラビラビで11年やってきて、常に3人で言っていたのは、僕らは凡人やからめっちゃうまいプレイヤーや天才的なプライヤーにはかなわへんから、何で勝負するのかって言ったら、息を合わすことやなって。息を合わすこと。とりあえずそこだけを集中してやろうっていうことになってやったら、それはすごくおもしろかったですよね。本当に1300回やったから、相手が何かを始めたら反応できるんですよね。

–––– 1300回は、ほぼ即興なんですよね。

PIKO 途中からは即興だけではなく曲をやるようになっていったんですけど。その曲もここからここまでの16小節ね、ここからBメロね、というんじゃないし、即興でやったここからここまでいいやんっていうパートを即興で曲にしていくんです。だから決めないんですけど、やっていたらこのメロディにはこういうリズムが気持ちいいやろってだんだん見えてくるんですよね。結局は同じようなことをやっているんですけど、それを昨日はこうやったから今日もこうやろうってやるのはダメよねっていうことは共通して持っていて。昨日はこうしていたって思ってしまった時点で進化をしていないっていうことを言っていて。だからそれは気をつけようって話していましたね。

–––– 会場も違えば、そこにいるお客さんのエネルギーも違うわけですし。

PIKO ジャムバンドはみんなそうだと思うんです。ラビラビでは10年間ずっとやり続けている曲もあるんですけど、常に即興の意識でやっているから、全然飽きないんですね。結局はお客さんも含めて音楽やから。僕とナナはステージでは後ろを向いているから、お客さんのことはよくわからないんですけど、az3が全体を見渡して、みんなが今どういう感じやろっていうのを見ながら絵を描いていっているんですね。

–––– PIKOさんは演奏しているときはふたりのことを見ている?

PIKO 僕は完全にふたりの音しか見ていないし、ふたりの音しか聞いていない。ときどき、横の方でおもしろい踊りをしている人がチラチラ感じることはありますけど(笑)。ラビラビのお客さんってすごい人がいっぱいいるんですよね。自由人が多いですよ。踊りもスタイルがあるわけではなく、ひとりひとりが好き勝手に踊るんですけど、それもおもしろいなって思っていた。

ラビラビ脱退の決心

–––– ラビラビのライブは本当に自由な感じがしていました。ラビラビを脱退するということを発表したのが6月。それはある程度、最後のライブまで時間が欲しかったということなのですか。

PIKO 5月くらいだったかな。九州にツアーに行ったときに、3人でいろんな話をして。僕は肺の病気で肺気腫なんですけど、年齢とともにハードな旅がきつくなってきて、ライブでも影響は出ていると思うけど、ふたりに対して一番申し訳ないと思うようになったのは荷物を持てなくなったことなんですよ。自分の楽器を運べないって、なんか…。ふたりが僕の分も運ぶんですね。このままじゃどんどん、足手まといになってしまうというか、いつかは…。年齢も僕とaz3が12歳違いで、az3とNanaが11歳違いなんです。ふたりはまだガンガンいけるだろうけど、もうこのままじゃ3人でっていうのは難しいから、いったん抜けるっていうか卒業したほうがいいんやろなっていう話をして。発表したのは新月の日で、そこで発表しようということになったんですね。

–––– 肺気腫は以前から患っていたんですか?

PIKO 311のときにわかったんです。そのときもめっちゃハードな旅をしていて、青森の八戸で311をくらって、そこから電気も通っていないなか、3日かけて東京まで戻ってきたんです。雪もまだ降っている時期で。でもそれまでも体調は悪かったんですけど、動けなくなってしまって、もうこれはやばいなっていうところまで行ってしまって。タバコも吸っていたんですけど、タバコを吸っただけでも吐きそうになったから。そのときはこれは肺炎かなって思っていたんです。もしくは気管支炎。それで病院に行ってみたら、立派な肺気腫ですねって診断されて。しばらくしたら快復して、普通にライブも続けていたんですけど。大震災のときからだから6年ですよね。少しずつ4階まで楽器を運べていたのが2階で休憩せなあかんようになったとか。少しずつですけどね。

–––– 少しずつだと実感できないですよね。

PIKO 肺気腫は簡単に言ったら高山病だと思ってもらったらいいです。常に標高4000〜5000メートルのところにいてる。ああいうところって、ちょっと歩いただけで息が切れたりするそうじゃないですか。あの状態なんです。肺に酸素が入って行きにくい。僕の場合は、普通の人の70パーセントくらいだったかな。肺にある酸素の量が。だから2回吸って140パーセントで3回吸って210パーセント。普通の人が2回吸えばいいところを、僕は3回吸うことになる。

–––– ライブをしていて大丈夫なんですか。

PIKO それがね、ライブはあんなにハードなのに大丈夫なんです。最近では2階まで階段で上がるのはめっちゃきついんですけど、ライブはできるんですよね。それはたぶん、ライブを長年やっていて、最小のエネルギーで最大を発揮するというのを身体が覚えていて、そうやってくれているのかなって感じています。だからけっこうきついこともあるんですけど、空気が悪い場所とかは特にきつくて酸欠状態になったりするんです。地下とかクラブとか、みんながガンガンタバコを吸っているようなところは、ちょっとって思ってしまうんですけど。でも1時間、1時間半のライブはできるんですよね。終わった後は、ライブが3日続いたとしたら、その翌日から2日はあまり動けないですけどね。回復するのに時間がかかる。

–––– 発表してから、一回一回のライブにかける思いって変わってきたものですか。

PIKO 最初の頃はあまり変わってなかったです。いつ頃だったかなあ。残り20本を切ったくらいかな。11月に入った頃から、「あ、もうちょっとだ」って思うようになってきましたね。さすがに5本を切ったときからは、「ああ、終わるんかあ」と頭に浮かんでしまいましたね。

–––– 寂しい?満足?どんな感情があるのでしょうか。

PIKO 感情としては「ああ、ラビラビとしては終わるんか」というのが一番ですね。

–––– ラビラビはふたりで続くのですよね。

PIKO 春から活動を再開させます。いろいろ動いていくと思います。

–––– たまには参加したりする?

PIKO やめるって言ったのに、また3人でちょこちょこやっていたらかっこ悪いじゃないですか。いつか3人でやることもあるんじゃないかと思うけど、そこまでに3人がどういう歩みをしているかによって変わってくるだろうし。どうなるのか。どうするのか。それはやってみんと。11年間、ラビラビしかやっていなかったわけですから。やめたらどうなるねんということさえ想像できないから。

–––– まずはソロのアーティストとして活動していくのですか?

PIKO ソロとしての活動はやっていきたいと思っているんですよ。ミュージシャンも、めっちゃいいミュージシャンが日本にはいっぱいいて、この人とやってみたいなって思うミュージシャンはいっぱいおるし。だからそういう人たちと音を出したりね。

–––– 1300回のライブで、ライブをしたお店だけではなくフェスやお祭りなど、いろんな人と出会っているわけじゃないですか。

PIKO ものすごい財産ですよね。年間で何百人という人と出会っているわけでしょ。名前はさっぱり覚えられないですけどね(笑)。

ビートを伝えること

–––– 今後はどんな活動をしていきたいと思っているのですか。

PIKO ラビラビートを布教していこうかなと思っているんです。僕はリズムオタクみたいなものなので。ラビラビをやって確信したことがひとつあって、これは僕の勝手なビート感なんですけど、生き物が発するビートには、それでしか伝わらない作用っていうものがあるんじゃないかって。細胞は水でできているじゃないですか。特に打楽器の波動っていうものは細胞にすごく響くんですね。それが心地よく一定のリズムで来ると、人は絶対に気持ちいいんですよ。しかもそれが機械で出しているビートも気持ちいいんですけど、人や生き物が出しているビートっていうのはもっと違うところにも響く。なんて言うのかな、人間が太古から持っているDNAをつくと思っていて、さらにそこから意識を変容させるようなビートを出したいと思っているんです。単純に言えば気持ちいいビートなんですけどね。

–––– 太古から世界各地で、儀式などで太鼓は使われていますから。

PIKO 人類は、まず声とビートで音楽をやりだしたと思っていて、その原型がラビラビだと思うんです。それをラビラビートで僕は作ろうと思ってやってきていて、それはやれているなって。みんな踊ってくれているし、どこに行っても踊ってくれるというのは、僕らの考えていたことは間違いじゃないなって。ついこの間も、11月に大阪で野外でライブをしたんですけど、30歳くらいの女の子がめっちゃ気持ちよさそうに踊っていたんですよ。ライブが終わったらその子の横には通訳みたいな人がいて。実はその女の子は耳が聞こえなかったんです。そのことが衝撃で。波動でビートを感じられてそれで人は気持ちよくなれるはずって僕はその前から思っていたんですね。その女の子が言うには、自分は耳が聞こえないし、骨伝導っていうものがあって今まではそれを当てることによって振動で音楽を感じていた。ラビラビのときはそんなものは一切なしで、生で感じることができたと。「私は、初めて音楽を感じることができた」って言ってくれたんですよ。そのとき「やったあ」って思って、ちょっとサブイボが立ったんです。伝わったって思って。

–––– ビートは細胞に届くんですね。

PIKO 細胞に来るんですよ。人間がほとんどが水なんで、当然ビートは響くんですよね。細胞のひとつひとつが、意識っていうのかな、なんか持っているんですよね。脳だけではなくひとつひとつの細胞が感じる。気持ちいいビートを作ることでみんながいけるなって思って。そのことをみんなに伝えたいなって思っているんです。そういうワークショップをしたいなって思っています。なんかめっちゃ変なワークショップ。テクニックを教えるとかドラム教室のような感じじゃないから、どう持って行ったらいいのか、いろいろ試行錯誤しているんですけど。Nanaは僕が思ったことをすごく理解してくれていて。俺はビートはこう思っているということを伝えて、それに彼女はすごく応えてくれていて。で、ふたりで作り上げてきた。だからきっと出来るんちゃうかなって思っていて。

–––– 耳が聞こえない、目が見えない。その人がどう他の五感を使って受け取っているのかって、僕らにはわからないですものね。どこかの感覚がきっと鋭敏になっているはず。

PIKO 耳が聞こえなくても伝わっているのだから、音楽の力、ビートの力ってすごいなって思います。

ラビラビの旅の終わりに

–––– 旅としては今日(12月23日)が最後という意識がありますか。

PIKO そうですね。ラビラビでの旅は今日が最後かなと思って。1月31日にもライブがあるんですけどね。

–––– 今日はラビラビの3人にゲストとして谷澤智文さんも加わった4人でもライブです。セットリストは決めているのですか。

PIKO ラビ初のセットリストを決めてのライブなんです。1300回やって初めて(笑)。もちろん即興のパートもあるんですけどね。

–––– もう一度、旅で得たものとは?

PIKO いろんなものを得られたと思います。ラビラビの旅って、言葉では言い表せないものがありますよね。とりあえず、やって良かった(笑)。それは間違いない。

–––– 女性ふたりと男性ひとりのユニットって苦労も多いと思います。長く続ける秘訣はあるのですか?

PIKO これといった秘訣はないと思いますよ。たまたま続いたんだと思うけど、Nanaがaz3のことを大好きで、ずっと大好きでいるんです。僕も当然大好きなんですけど、ふたりともそうやから続いたんでしょうね。嫌いになったら続かないですよ(笑)。

–––– 嫌いになるというか、好きではいられない時期もあると思うんですけど。

PIKO ケンカはむちゃくちゃありましたよ。疲れてきたらイライラするじゃないですか。そんなときにしょうがないことでガーッと言い合ったり。最近ではイライラする時間がもったいないなって思っていて。

–––– ラビラビでのドラムセットは今後どうしていくんですか。

PIKO あまり考えていないんですけど、ドラムセットにもう一度戻りたいとも思っていて。あのセットでやっていたからこそ、ドラムセットの可能性がもっとあるなって思えるようになってきて。自分自身が、ドラムってこうやろとか、ドラムのスタイルってこうやろって思い込んでいたところがあって、そこを取っ払ってやったら、もっと表現が自由になるんじゃないかなって。ドラムセットって、よく考えられているものなんですよ。何人かのパーカッションをひとりで賄う。しかもこれだけ時代が変わってきたのに、ほとんど変わっていないんですよ。ドラムセットというものの構成は。これはすげえなって思って。

–––– 何人かのリズム隊をひとりでやってしまう。

PIKO ラビラビでやっていたセットと普通のドラムセットをミックスするのもおもしろいかなって思っていて。ちょっとそのことも考えているんです。I Padに入っているガレージバンドなどのソフトを使って、自分のドラムとミックスしてみるのもおもしろいかなって。想像することはいっぱいあって、あとはそれをやれる体力があるのかどうか。こんなおっさんやし、みんな相手してくれるのかなって思うこともありますよ(笑)。

取材協力=梵暮堂POWERS2

Piko KAMON(Beat creator)

az3(voice , live mix)、Nana( percussion)、Piko (percussion)というトリオで2006年から活動を続けてきたラビラビ。3人でのライブは残り1本。1月31日に大阪CIRCUSで開催される「MondayCosmic 3rd Anniversary」。この日のトライアングル最後の一夜を映像化するプロジェクトのクラウドファンディングが行われている。ラビラビは2018年春からふたり組として再始動。Piko KAMON(Beat creator)として、ライブ、作品作り、ワークショップなどを続けていくという。

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