95年以降も、ボブ・ウィアやフィル・レッシュのライブ活動を「グレイトフル・デッド」とするならば、20年にわたってデッドの鍵盤を支えてきたのがジェフ・チメンティだ。その時間は歴代のデッドのキーボーディストのなかでもっとも長い。
インタビュー=大木登志也 Interview = Toshiba Oki
文=菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真=林 大輔 photo = Daisuke Hayashi
–––– ピアノを弾くようになったのはどういうきっかけがあったのですか。
JC 家にピアノがあったことを覚えているよ。両親と教会に行くと、そこではオルガンの演奏を聴くことができた。もっとも古いピアノの記憶は4歳くらいのとき。教会でオルガンを聴いて、家に戻ってもその余韻が残っている。その音をピアノで再現しようとしていた。耳に頼ることで弾きはじめたんだね。
–––– ミュージシャンとして活動するようになったのは?
JC 40年代から50年代にかけてジャズ・ワークショップというクラブがサンフランシスコにあって、そこが80年代になって再開したんだ。マイルス・デイビスやジョン・コルトレーンも出演していた名の通ったクラブ。80年代のサンフランシスコには伝統的なジャズのシーンが残っていて、ビバップのジャズ・ミュージシャンたちとのジャムセッションに参加していた。18歳くらいの頃かな。僕は10歳くらいにしか見えなかったんじゃないかな(笑)。徐々にそこで出会った人たちとライブもするようになって、アシッドジャズのシーンに入っていったんだ。
–––– そしてグレイトフル・デッドのメンバーにも出会っていくわけですね。
JC ボビー(ウィア)と出会ったのはちょうど20年前の1997年のことだ。ラットドッグに加入することになったんだ。
–––– どんな経緯でラットドッグに加入することになったのですか。
JC サックスプレイヤーのデイブ・エリスが率いるジャズカルテットのメンバーだったんだ。そのときデイブはラットドッグにも参加していた。ラットドッグにはジョニー・ジョンソンというキーボーディストがいたんだけど、どうもツアーに出るのが困難だったようで、他にキーボーディストを探していたんだ。そしてデイブから声がかかって、ボブに会って、ツアーに参加することになったんだ。
–––– ジャズやアシッドジャズのシーンにいたジェフさんにとってグレイトフル・デッドはどんな存在だったのですか。
JC グレイトフル・デッドのことは知っていたけれど、彼らの音楽のことはまったく知らなかったんだ。ジャズをやっていて即興のことはわかっていたから、彼らの音楽にインプロビゼーションの要素が多々含まれていることは知っていたよ。だから、自然とフィットできたのかもしれない。
–––– 97年といえばジェリー・ガルシアが旅立ってしまった翌々年です。グレイトフル・デッドのショーは体験していなかった?
JC デッドは一度も見たことがなかったんだ。だから学ばなければならなかったことが多かった。学ぶうちにわかってきたことは、彼らの音楽には素晴らしい要素がふんだんにあるということ。彼らのホームグラウンドであるサンフランシスコに生まれ育ちながら、なぜ僕はこの音楽に触れてこなかったんだろうって思ったよ。
–––– ラットドッグ以降も、ジ・アザーワンズ、ザ・デッドなど数々のデッドのプロジェクトに名を連ねることになりましたね。
JC デッドの素晴らしさは、音楽はもちろんなんだけど、多くの人々を感動させたことにある。スピリチュアルな面でもね。だからデッドのメンバーたちと一緒にいると、そのこと自体が凄いことだっていうことが身にしみて伝わってくるんだ。本当に多様な人たちに触れることができた。彼らがいるところでは同じスペースを共有して、一緒にいることができた。彼らのファン、デッドヘッズも素晴らしいよね。とてもユニークで、許してくれることもあれば非常に悲観的な側面もある。けれどみんなが献身的にデッドをフォローしていた。それがバンドにも届いて、彼らのエネルギーがステージの僕らにも伝わってきた。だからお互いに還元されるような関係なんだ。ライブではベストを尽くすだけ。心を込めてすべてを出し切る。それが僕らにできることのすべて。ミュージシャンを支えてくれたデッドヘッズにも感謝しているよ。
–––– インプロビゼーションでは、何がもっとも大切だと思っていますか。
JC まずは全身全霊を尽くすことだね。共演者たちだけではなく、オーディエンスとの繋がりも大事さ。最新の注意をはらって聴き入ること。素早い決断力。そして感情を込めること。これらすべてがインプロビゼーションの一部なんだ。会話と言ってもいいかもしれない。ミスをしてしまうことなんてしょっちゅうあるよ。あるときは良くて、あるときは良くない。それを振り返って執着する時間なんてない。僕はそこにいて「今」を大切にするだけ。
–––– ジャムをしているときは、何かを考えているのですか。それとも何も考えていない?
JC 僕個人としては何も考えていないね。音楽を学んでいたから楽譜も読めるし作曲もできる。だけどそれをすべて捨て去ってしまうんだ。例えば「この場面だとこのスケールを弾こう」とか「このコードを鳴らしてみよう」なんて一切考えない。100パーセント反応。何も考えずに心を開く。そんなアプローチをしているよ。
–––– 2015年には、グレイトフル・デッドのメンバーとして、カリフォルニアとシカゴで開催されたデッド50に出演しています。ステージに立つときはどんな感覚がありましたか。
JC あれはすごい体験だったよ。グレイトフル・デッドの95年までの最後の数年間は、おそらくあんな感じだったのかなって想像できる。それを自分もその一部として体験できたことはとても特別なものだった。ステージに向かって歩いていくと、オーディエンスから発せられるエネルギーがあまりに大きくて、感覚が麻痺するようだったよ。その一方でステージに立つデッドのメンバーたちのエネルギーもまざまざと感じた。デッド50にミュージシャンとして参加できたのは、本当に恵まれたことだった。それが歴史の一部にもなったわけだしね。
–––– そういえば〈フジロック〉にも来日したことがあったんですよね。
JC ボビーとともにね。あのときは土砂降りの雨だったから、次は晴れた空の下でやれたらいいなと思っているよ。
Jeff Chimenti
1968年にサンフランシスコで生まれた。10代の頃からジャズ・ミュージシャンとしてクラブでプレイ。グレイトフル・デッドのボブ・ウィアが結成したRatDogの1997年のツアーでキーボーディストとして抜擢され、以降、 The DEADやFURTHURなど、デッドメンバーによるバンドのほぼすべてに参加。デッド結成50周年を祝ったグレイトフル・デッドのリユニオンDEAD 50では、グレイトフル・デッドのメンバーとして名を連ねた。Dead & Campanyのメンバーとして2月からメキシコやニューオーリンズなどでライブが予定されている。RatDogのメンバーとして来日した以前にも、ジャズミュージシャンとして長く日本に滞在していたこともあった。
Special Thanks = Taro Tsuzuki
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