【三ヶ田圭三(club SONIC iwaki)】地元のミュージシャンが集い、発信するという原点を忘れない。

東日本大震災、そして新型コロナウイルス。乗り越えられそうもないと思えた高い壁も、地元の仲間や音楽(ライブ)を愛するミュージシャンの支えによって越えられてきた。その経験が未来のいわきのシーンへとつながっていく。

文 = 菊地 崇 text = Takashi kikuchi
写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchutaishi☆Star

ー 東日本大震災で揺れたときは、どこにいましたか。

 福島あたりの東北自動車道でした。嫁がふたり目の子どもを妊娠していて、自分の実家の秋田に行ってたんですね。嫁が秋田から戻ることになって、仙台まで迎えに行ったんです。仙台からいわきのルートは、東北道を郡山で曲がって磐越道で走るか、海沿いの下道か。いつもは海沿いのルートなんですけど、疲れていることもあったので高速にしたんですね。それで福島市あたりで揺れた。遠くでは煙が上がっているのも見えましたね。ラジオをつけたら、津波が襲ってくると。海沿いのルートだったら津波にやられていたかもしれません。


ー ソニックでは当日はどんなイベントが行われていたのですか。

 学生の卒業ライブイベントだったんです。原発近くの富岡町の学生もいて、帰れなくなったんですね。ソニックの他にバロウズというバーもやっているんですけど、そこを避難所みたいにして、帰れなくなった人たちもそこに泊めていました。


ー 被災地でライブをすることをどう考えていましたか?

 ライブをすること、音を出すことは不謹慎だと思っていました。その気持ちを払拭してくれたのがうつみようこさんです。うつみさんは震災直前の3月9日にソニックでライブをして。3月後半にカメラマンの平間至さんとドラゴンアッシュのATSUSHIさんと炊き出しをしにボランティアで来てくれたんです。避難所でみんなが歌ってってお願いして、「満月の夕」など何曲か歌ってくれた。避難所にいる人がみんな喜んでくれて。それで4月上旬に再オープンしたんです。


ー 再オープン後は、どんなスタイルでライブをしていたのですか。

 お客さんからはチケットチャージなしで1杯目のドリンク代として500円だけもらって。ギャランティもなし。地元のミュージシャンもライブをお願いできるような状況ではなかったので、ホームページで「ギャランティは出せませんが、ライブをしてもらえませんか」って募集したんですね。有名無名問わず、いろんな方から連絡が来て、予定はすぐに埋まってしまったんです。再オープンしたら、ライブが再会の場所にもなっていました。


ー ミュージシャンもアーティストも、被災地のために何かをしたいという思いが強かったんでしょうね。

 今につながる10年を一緒にやっていく人脈ができたというか、基盤ができたように思います。ソニックは貸しバコではなく、あくまでもブッキング中心のハコなんですよね。

ー 今も3月11日に開催されているASYLUMも、そんな流れのひとつとしてはじまったのですか。

 タテタカコさんが沖縄でやっていたイベントを、いわきで3月11日に開催するために持ってきてくれたんです。また何かあったときに、相談する相手がいたほうがいい。いろんな人をつながりを持っていたほうがいい。 ASYLUMだったら何かできるかもってタテさんが思ったらしいんです。このご縁で沖縄に行って、沖縄では戦争体験を音楽やお祭りで癒しているようなことを感じました。ここも同じで、音楽によって心が再生されていくんですよね。分断されそうになっていることも、音楽によってひとつになれるというか。


ー 分断という意味では、コロナという状況も震災後と似ているように思います。

 ここに暮らしているとそっくりだと思います。他の土地に行って、いろんなことを言われました。「着ている服をとっかえてくれ」とか。歓迎してくれているという状況のなかでも、そんな言葉が出てくる。悪気がないのはわかっているんです。コロナでは東京の人がそんなそれを喰らっちゃったなっていう印象があって。コロナ禍で再開すると決めたときは、お客さんに関しては地域限定はしなかったでんすね。除外される人の立場になったら、それは悲しいことなので。地域限定があるのだったらソニックはオープンしない。オープンするのなら誰でも迎え入れる。このスタンスになれたのは、放射能の経験があったからだと思います。


ー 今後、ソニックをどんな場所にしていきたいですか。

 ありがたいことに、震災によって多くの人が知っているアーティストも来てくれるハコになりました。地方の小さな町では見られないアーティストのライブがある一方で、地元のミュージシャンたちが集まれる場所。若いミュージシャンにとっては目標となる場所。震災とコロナで学んだのは、地元の人の場所という原点をしっかり考えるということ。それができれば、何が起こっても大丈夫じゃんっていうことがわかったから。


ー それではいわきはどういう町になってほしいですか。

 いわきに限らず東北って、どうしても中央に対して引け目を感じているというか、対等になれないんですよね。その呪縛を紐といていって、本当の意味での対等になれるような町になれたら最高なんですけど。私はライブハウスの人間なので、少なくともライブハウスはそういう場所にしたいですね。原発に近いライブハウスが、そういうスタンスということも、すごく意味があるのかなって思っています。


ー 震災、そしてコロナによって、地方の魅力を知るきっかけにもなっていると思います。

 東京は速くて、こっちはのんびりって言われ方もするけど、いろんな暮らし方があっていい。東京が抱えている突き進んでいかなければいけないという固定概念が、もしかしたら原発にもつながっているんじゃないかなって思う。自分らが把握できる範囲で、楽しみながら生活していく。それが一番豊かだなって思います。


三ヶ田圭三(club SONIC iwaki)
クラブソニックいわき店長。地元のライブシーンの底辺を支えることを目的に2001年に福島県いわきと茨城県水戸にオープン。クラブソニックいわきは2003年に現在の場所に移転。大震災の傷が癒えない2011年4月に入場料なしでライブを再開。支援のために数多くのミュージシャンが、そのステージに立った。コロナ禍においても、いわき発信の音楽文化を守り続けている。http://www.sonic-project.com/~sonic-iwaki/

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