地方都市に蠢く次世代シーンの発火点。【盛岡 MOTHER インタビュー】

誰しも「原体験」と呼ばれるものを持っているだろう。こと音楽やPartyを愛する者にとっては、魂が共鳴する音との出会いや、それを介して人と繋がる喜びを感じた体験が必ずあるはずだ。どこまでも限りのない音楽の世界へのゲートとなるのは、たまたま足を運んだフェスかもしれないし、街中にある小さなDJ BARかもしれない。
岩手県盛岡市にあるMUSIC&BAR「MOTHER」は、次世代シーンを担う若者たちにとってのゲートとも言える場所だ。MOTHERでは現在、20代〜40代のDJやアーティストがPartyを行ない、若者が音楽を囲み集っているという。MOTHERを主宰するMARYさんは、80年代から地元盛岡を拠点にDJやPartyを通してシーンに携わり活性化をになってきた存在だ。
「MOTHERに関わってくれたみんなの音楽をリターンにすれば、最悪自分が店を続けられなくなったとしても、その音楽は残って次に繋がっていく」

新型コロナウイルスの影響で存続の危機に立たされ、クラウドファンディングを立ち上げたMARYさんの言葉である。先が見えず、お店として絶望的な状況にありながらも、この先のシーンを守ろうとする、まさに“MOTHER”と呼べる存在だ。

音楽、それに付随するカルチャーを愛し、未来のシーンを守るMARYさんは一体どんな人なんだろう。純粋に湧き上がる想いに抗えず、インタビューを敢行した。MOTHERの前身となるDJ BAR DAIのこと、MOTHERのこと、そして音楽とシーンに対する想いを聞いた。



text = Azusa



国内外のアーティストたちが集い、ローカルシーンを活性化させたDJ BAR DAI


–––– MOTHERがオープンする前は、同じ盛岡にあったDJ BAR DAIで14年間店長をされていたんですよね。DJ BAR DAIはどのようなお店だったのですか?

 DJ BAR DAIは、1990年代初期にオープンしたお店です。日本でクラブ文化というものができ始めたばかりの時期で、その中でも割と早い段階にできたお店でした。当時は日本のHIPHOP全盛期でさんぴんCAMPが開催されたり、ジャパニーズHIPHOPの黄金期でした。

 その時は、バブル期から続くディスコもあったのですが、ディスコは風営法の関係で深夜12時にはお店が閉まってしまうんですね。でもディスコに集う音楽やお酒が好きな人は、朝まで遊びたい人が多いじゃないですか。だからターンテーブルを置いて細々と音楽をかけて営業をするBARが盛岡の至る所にできていったんです。そこでツマミ食べながら、楽しくなったら踊れる「クラブの手前」みたいなお店が。DJ BAR DAIもそんな場所でした。

–––– いわゆる小箱、DJ BARと呼ばれる場所ですね。

 そうです。当時から私はDJとして活動もしていましたし、ディスコで働いていたので、仕事後や遊んだ後にDJ BAR DAIによく遊びに行っていたんです。DJ BAR DAIには私の前に何人か店長さんがいらっしゃったんですけど、私の前の店長さんが「辞める」と言っていた時に、「楽しい場所だから無くしてはいけないな」と思って、自ら店長に立候補したんです。そこから14年間、店長をやらせていただきました。

–––– 好きな場所を自ら守られたんですね。MARYさんが店長になって、工夫した点などありますか?

 当時、社長から「現場にいて、売り上げがマイナスにならなければ何をやってもいいよ」と言っていただいたので、自分のやりたいようにお店を作っていきました。私が店長になる前はたまにDJを呼ぶ程度だったのですが、もっとクラブ寄りにしていったんです。

–––– クラブ寄りと言いますと?

 曜日ごとに内容を変えて、毎週「帯」のPartyを組んでいきました。おかげさまで平日からレギュラーパーティーで埋まっていて、日曜日は昼間にバンドに借りてもらったりしていましたね。

–––– どのようなアーティストをブッキングしていたのですか?

 ローカルアーティストがメインでしたが、次第に東京に行かなくても遊べるように、自分の好きなアーティストにも岩手に来ていただくようになりました。店長と並行してDJもやっていましたし、レコードも常にチェックしていたので、自然と当時の先端にあったHIPHOPの影響も大きく受けて。まさに90年代の日本のHIPHOPの先駆者と呼ばれる方々にも来て頂いていました。

–––– たとえばどんな方々ですか?

 一番最初に私が組んだPartyのゲストは、RHYMESTERのMummy D君とSOUL SCREAMのDJ CELORY君でした。亡くなった方も含め、本当にいろんな方に来てもらいました。Nujabes、キエるマキュウ、KICK THE CAN CREW、GAGLE、DJ KENSEI、DJ KIYO、Jazzy Sport Crew、黒田大介さんなど、数え切れません。

–––– レジェンドと呼ばれる方ばかりですね。

 日本のHIPHOPシーンを牽引した方々ばかりです。最初にMummy D君を呼んだ時に、同年代ということもあってすごく仲良くなって(笑)。その後からはRHYMESTERとして何年か来てもらっていたんです。彼らは今はもう武道館でやるようなスターですが、当時はまだ小さな場所でLiveをしていたので。

 時が経つにつれ、次第にダンスミュージックのDJもブッキング出来るようになりました。亡くなってしまったKENTARO IWAKI君やKaoru Inoueさん、CALM、Toshiyuki Gotoさん、NORIさん、Alex From Tokyo、DJ NOBUくん、CMT、CONOMARKなど...。本当に数え切れないほどたくさんの方に来ていただきましたね。

 海外のアーティストのJapan Tourも縁があって行いました。House DJのPal JoeyやFunk MusicのKingと呼ばれているKeb Darge、FIVE DEEZ、Rich Medinaなどにも来て頂いていました。

–––– ブッキングはMARYさんご自身がやられてたんですか?

 Mummy D君がきっかけで、当時RHYMESTERが所属していたFILE RECORDSの人たちとも仲良くなったんです。KENTARO IWAKI君やKaoru Inoueさんは当時FILE RECORDSに所属していたので、紹介してもらったりしていました。

 実は、当時JAZZY SPORTの社長のMasaya君(Masaya Fantasista氏)が大学在学中にバイトをしていたのですが、彼がFILE RECORDSに就職したのもDAIでの縁がきっかけなんですよ。彼がFILE RECORDSに入社して、隣のデスクに座っていたのが、JAZZY SPORTのエグゼクティヴ・プロデューサー気仙多郎 a.k.a Wassupskiで。その偶然からJAZZY SPORTが始まっているんです。

–––– そうなんですね。JAZZY SPORTは、岩手で毎年1月にAPPI JAZZY SPORTも開催しています。

 APPI JAZZY SPORTを主催するCHOKU君(JAZZYSPORT MORIOKAの吉田直氏)はDAIでレギュラーでDJをやってくれていて。それでMasaya君と仲良くなったんです。Masaya君は岩手が大好きなので、その流れからAPPI JAZZY SPORTも始まっていて。私もAPPI JAZZY SPORTの初期から10年間くらいは、アフターパーティーを手伝っていました。

 MOTHERがオープンした時もJAZZY SPORT MORIOKAの方々が手伝ってくれたんです。DJブースやバーカウンターなど、店内の木でできている場所は、彼らが作ってくれたものです。だから、JAZZY SPORTとは長い付き合いですね(笑)。

JAZZY SPORTのブログには、当時の様子も綴られている


次世代の若者が集うMOTHERは、未来の音が鳴り響く場所


–––– お話を伺っていると、DJ BAR DAIは岩手のシーンの活性化に貢献した場所なんだなと感じました。なぜ、閉店してしまったんですか?

 オーナーの意向です。閉店の話は、突然だったんですよ。閉店する2ヶ月前にオーナーから聞いて、急に無職になりましたね。少し休んだら県外へ出稼ぎに行こうかと思ってました。

–––– 「またお店をやろう」とはすぐに思わなかったんですね。

 音楽を嫌いになることは絶対にないというのはわかっていたので。仕事として音楽に携わらなくてもレコードは買い続けるし、音楽はチェックするし、DJもやり続けていきたかったので、音楽と離れることはないことは確かでした。

 次にまた店をやりたいかはよくわからなかったのが正直なところでした。だから一度全然違う仕事で外に出て、お金を貯めて、次にやることを探そうかなと思っていて。そうしたら母に引きとめられたんです。母は地方に行くことに最初は賛成してくれていたのですが、私が地方の物件を探し出した時に「やっぱり行ってほしくない」と言い出して。「本当は行ってほしくない」という気持ちを我慢してくれていたんですよね。やっぱり親に「行かないで」と言われたら、行けなくて…。そのタイミングで知人から「お店をやるのにいい物件があったよ」と連絡をもらい、盛岡に残ってMOTHERをオープンすることにしたんです。

–––– もう一度お店をやってみようと思った最大の理由はなんですか?

 母が「もう一度やってみたら」と後押しをしてくれたのが大きいですね。それがきっかけでお店の名前も「MOTHER」にしたんです。母の存在は自分の中でも大きくて、今でも支えてもらっています。

 実はお店のロゴにもエピソードがあって。店名を決めた後、夢の中でアフリカ大陸がポーンって出てきて。その時に電気が走ったように起きてその絵を描いて、デザイナーの友人に形にしてもらったんですよ。

–––– 何か導きのようなものがあったのかもしれないですね。

 元々ブラックミュージックが好きなので、何かの縁かもしれませんが、以前から好きなワードにも「MOTHER」とつくものが多かったんです。 MOTHER COUNTRY(アフリカ)、MOTHER EARTH(地球)、MOTHER NATURE(自然)。全部「MOTHER」がつくんですよね。

–––– MOTHERオープン後も、DJ BAR DAIでやられていたように毎週Partyを組んでいたんですか?

 オープン当初はDJは入れずに、BAR営業をメインにしていたんです。DAIの閉店も急でしたし、それから半年でオープンしたMOTHERに「すぐ戻ってきてほしい」とは言いづらかったんですよね。オープンしてしばらくして、タイミングが合った人たちからレギュラーでDJに来てもらうようになりました。

–––– 今MOTHERに来るお客さんは、DJ BAR DAIから通っている方が多いのですか?

 DAIからのお客さんも、もちろんいらっしゃいます。MOTHERは2010年にできたお店なので、10年もやっていると次世代も来るようになりました。今は、次世代を担う20代の子たちがよく来てくれています。私と母親の年齢が一緒だと言う、DJやラッパーたちが集まる場所になっちゃいましたね(笑)。

 今、MOTHERでやっているPartyはほとんどローカルのDJやラッパーが出ていますし、ローカルシーンの活性化も担っていると感じます。若い世代には、現場に立たせて場数を増やしてあげることが大事ですから。

 私は昔から「プレイヤーとコミュニケーションが取れていないと絶対にいいPartyが作れない」と思っていて。だから普段から若いDJやパーティー関係者たちとは、居酒屋に行ったり一緒にスポーツをしたり、店以外でもよく遊ぶんですよ。

–––– お話をお伺いしていく中で、私はMARYさんこそMOTHERだなと感じました。音楽とシーンのことを心底愛していらっしゃっているし、次世代の子たちにとっての母的存在なのかなと。

 MOTHERのクラウドファンディングを立ち上げる前から、若い子たちがInstagramやTwitterで「MOTHERを応援してください」と投稿してくれていたりもして…(笑)。

–––– 今、MOTHERは営業再開されているんですか?

 岩手県はGW明けに緊急事態宣言が解除されたので、営業はしていますが街には全然人がいないですね。クラウドファンディングを立ち上げたのは、夏までこういう状況が続いてしまうことを想定した上で、お店を残して行きたいと思ったからなんですよね。


音楽を通じた縁を、次の世代に繋げていく場所であり続けたい


–––– 新型コロナウイルスの影響で「当たり前のこと」ができなくなりましたが、様々な人や場所が「なぜこれをやっているのか」と自問自答する機会になっているとも感じています。MARYさんがMOTHERという場所を守って、存続させていきたいと思っている理由を教えていただけますか?

 まず、「ウイルス」という突然やってきたもののせいで終わらせたくないんですよね。震災の時もそうでしたが、自らの意思ではないところで終わるのは納得がいかない。「このタイミングで終わるのは嫌だな」って思います。

 盛岡では、次世代の音楽シーンを担う若者たちがようやく出てきたところなんですよ。その子たちがプレイする場所、遊べる場所が無くなってしまったらどうなってしまうんだろうと思っています。今うちでPartyをやっている最年少の子たちは「自分たちよりも下の世代を育てたい」と言っているんです。大学生の子たちは「なんとかして大学の子たちを巻き込みたい」と言っていたり。可能性がある子たちがたくさんいるので。 

–––– 新型コロナウイルスは人類の大きな困難を与える一方で、新たな気づきを感じさせてくれることも多いと思っています。MARYさんご自身が、コロナ禍で気づいたことなどはありますか?

 まず「命有る限り生きていかなくてはいけない」ということですね。そして1日1日を大事に生きていったうえで、未来が創られるということ。先の予定を立てていても、何が起こるかわからないじゃないですか。だから日々を大事に生きていくことが重要だという、根底の部分に気付かされたと感じています。

–––– MOTHERをはじめ、音楽を他者と共有して楽しめる空間・場所が今、危機に晒されています。この危機を乗り越えた先、そうした場所に何か変化が生じると思いますか?

「元どおり」になるまで、どれぐらいの時間がかかるかは全く予想はつかないですが、「元どおり」ではなくても、みんなが集って、音楽を楽しめる時間や空間はまた絶対に戻ってくると信じています。今はそれぞれが家で個々に音楽を楽しんでいると思うのですが、やっぱり同じ場所に集い、みんなで体験を共有する行為はすごく価値のあることなので。

–––– そうですね。目に見えない音楽を通して生まれるエネルギーは、オフラインのリアルな場所でこそ感じられるものだと思います。この状況下でそうした「目に見えないもの」の価値が上がっていくといいですよね。

 Stay Homeせざるを得ない今の状況で、疲れてしまう人もいるとは思います。でもポジティブに考えれば、本を読む時間やゆっくり映画を観る時間、音楽を聴く時間が増えたという人もいると思うんですよね。芸術を深く楽しむ時間が増えたと考えれば、収束後には芸術的なものに価値を見出す人が増えるんじゃないかなと思っています。だからこそ、芸術を発信する場所として、1日でも長くお店を続けていられたら嬉しいですね。

–––– 事態が収束した暁、MOTHERはどのような場所でありたいですか?

 老若男女、海外の人、県外の人、どんな人でも足を踏み入れやすい場所でありたいですね。音楽に詳しくない人にも来てほしいです。だからMOTHERは「MUSIC&ART SPACE」であり、クラブではないんです。やっぱりクラブって聞くと入りづらい人もいるじゃないですか。音楽も聴けるし、ご飯も食べられる、気軽に来れる家みたいな場所でありたいと思います。そこで新しい縁が生まれるかもしれませんし。私自身、音楽を通じた縁で生きてきたので。

 盛岡にはMOTHERの他にも、音楽を楽しめる場所が何店舗かあるんですよ。素晴らしい音響設備のクラブもあったり、それぞれに色が違う。MOTHERは若いお客さんが多いので、シーンの入り口になれればいいなと思っています。

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