【OPEN JAPAN (肥田 浩)】祭りから復興へ。心に笑顔を生みだすための支援スタイル。

未曾有の大災害となった東日本大震災。被災した人たちに寄り添った支援とは何か。それを常に考え、話し合いのなかで導き出し、ひとつひとつ形にしてきた。「忘れない、置き去りにしない」。それが活動の核に存在している。
文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi

–––– 東日本大震災以降、肥田さんは休むことなく災害ボランティを続けています。東日本大震災のときは、どんなきっかけで現地に入ったのですか。

 実は、大震災があってすぐに東北へ行ったわけではないんです。3月11日が自分の誕生日で、当時は名古屋にいて自分のお店のちょうど5周年の日でもあったんです。東日本大震災は遠くの場所で起こっていることでした。

–––– 肥田さんにとって、意識的には遠くで起こっていることだったのですね。

 津波の被害よりも、福島原発の放射能により気持ちが向いていたんですね。原発反対デモじゃなくて、みんなでこの状況を乗り越えるための何らかのアクションをしたいなって思って、大震災の1カ月後の4月11日に名古屋のセントラルパークを予約したんですね。そんななか、四万十塾の(木村)とーるから、週に何回か電話がかかってきていたんです。「1回でいいから現地に来い」って。落ち着いたら行くよって答えて、結局石巻に行ったのが4月3日でした。

–––– 石巻ではどんな動きをしていったのですか。

 朝に着いて。昼過ぎに炊き出しをやっている小学校に行ってみなって言われて、とーると一緒に行ったんです。スープの入った寸胴をもらって、それをとーるが自分の車に積んで、俺のことも乗せてどこかに向かったんですね。まだ全然瓦礫が片付いていないところに、おじちゃんたちが3〜4人で焚き火をしていて。とーるは「ヒーサー、ここで降りな」って言って、スープと俺だけ降ろしていなくなったんです。おじてもらうことになって。歩いていたら、釣り小屋のお父さんが濡れた畳を出していて、それを手伝ったりもして。2〜3時間かけてぐるっと回って、最後に行ったのが渡波の明神社だったんです。「これ、やることだらけなんだ」って実感したんです。

–––– そこからずっと石巻にいることになったのですか。

 神社に行ったら宮司がいたんですね。神社には鯉のぼりもあったんです。宮司に聞いたら、「毎年5月5日にここでお祭りがあって、今の時期に鯉のぼりを立てることからお祭りははじまるんだ」と話してくれて。神社には桜の木も流れてきていて、その桜のツボミが生きていたんですよ。3週間前に流れてきた桜のツボミを見たときに「神社でお祭りか」とふと思って、それなら何か手伝えるかもと。宮司に「一旦帰るけど、また手伝いに来るわ」って口にしていたんです。

–––– 名古屋で4月11日にお祭りをやって戻ってきた?

 お祭りをやって、出店の売り上げを俺に託してくれる人も出てきて。そして石巻に戻ってきて、また明神社に行って。宮司に再会したときに「5月5日にお祭りをやりましょう」って言っちゃったんです。

–––– 東日本大震災直後に、お祭りを開催することに反対も多かったのではないですか。

 周りの多くの人は「祭り」って俺が言っている意味がわからなかったようです。 お祭りの前にやることはいろいろあると。手書きでチラシを作ったりしているうちに、コンビニも貼ってくれたりして、「俺も行く」「私も参加する」って多くの人が集まってきてくれた。GRAVITYFREEもちょうど石巻にいたから、ライブペインティングしに来てくれたりね。北海道の人がチャンチャン焼の露店をやったり、横浜のボーイスカウトがたい焼き屋をやったり。青空整体、青空散髪、青空法律相談所…。みんなが自分のやれることを持ち寄ってくれて。やる前に思い描けていたわけじゃないんだけど、ちゃんと祭りになった。地元の人たちの「久しぶりだな」っていう再会を喜ぶ声もあちこちから聞こえてきて。その声を聞いてやってよかったって思えたんですね。

–––– 名古屋でのイベント、明神社での祭り。肥田さんが祭りというものに入っていったきっかけを教えてもらえませんか。

 喜納昌吉さんとの出会いですね。93年か94年に「花」を聞いて、いい歌だなって思って。そこからアルバムを買って、そしてライブに行くようになって。どんどん好きになって、近くだけではなく、大阪でも東京でも九州でも、どこにも行くようになって。確か山形での喜納さんのライブのときだったと思うけど、ライブが終わってから「これから仙台に行くから一緒に行きましょう」と誘われ、車に乗せられて。それから喜納さんとお話しするようになって。イラク戦争のときに「ワールドピースナウ」っていう反戦ムーブメントがあったんですね。喜納さんとともにエイサー隊でデモに参加したりもしたんです。けど「俺には反対運動って合わないな」って思って。イラク戦争が開戦してしまって、ムーブメントは下火になっていってしまった。俺は「大切なのは今からでしょ」って思って。沖縄の喜納さんに直接会いにいって、名古屋で5月5日に「みんな地球の子供じゃん」っていうお祭りをやるから来てもらえないかとお願いしたんです。喜納さんはその場で快諾してくれました。そして2003年に「戦争よりも祭りを」を名古屋で開催したんです。それから自分でもやるようになって。

–––– 「戦争より祭りを」や「すべての武器を楽器に」という喜納さんのメッセージが、肥田さんの心にも強く響いていたということですね。

 喜納さんは「戦争に命をかけるより、祭りに命をかけるほうが幸せだ」と。確かに祭りになると命がけになる人も少なくない。殺し合いに行くエネルギーを祭りに切り替えるだけでいんだっていう。これってわかりやすいじゃないですか。

–––– 反対ではなく、誰もが同調できるポジティブなメッセージです。

 お祭りは日本だけではなく、世界のどこにでもあることですし。

–––– ボランティアについて話を戻しますが、石巻以降、いろいろな被災地へ行っています。

 2011年は石巻の後にいわきに行って、また石巻に戻ってきて、その後には和歌山に行ったんです。自分で終わったと思ってホッとしているとその次の日に何かが起きてしまうんです。

–––– ボランティアを続けるモチベーションは、どこから生まれてきているのですか。

 失礼な言い方になってしまうんですけど、俺のなかでアドレナリンが出るんですね。被災地に行って、マイナスから何かが生まれていく。そこにお金じゃない「ありがとう」が介在しているんです。

–––– きっとその「ありがとう」が続いているエネルギーの源泉なんでしょうね。

 できる人ができることをやるっていう。フラットになれるんですよね。被災地に行くことによって、自分のやることがすごく人間味も出てきて、必要とされている感もあって。俺が行ってなんとかなる人たちがいるのなら俺が行く。そんなシンプルな思いです。

–––– ボランティアで被災地に行くことで、日本の足りていない部分も見えてくるのではないですか。

 被災地に行くと「祭り、あります?」って聞くんです。「祭りが盛んだよ」っていうところはコミュニティが元気なんです。地域のお祭りって役割分担があるんですね。それって結局は俺らがやっているボランティアと同じ。お祭りってその地域の助け合いによって成立する。今は高齢化や過疎化によって、地域ではなんともできなくなっているからこそボランティアが必要になっているんだと思っています。

–––– 最近ではどこにいることが多いのですか。

 2019年の台風被害のときから宮城県丸森町に来ていて。廃校を借りているんです。ここで重機とかチェーンソーとかの技術的な講習会をやっていきたいって思っています。そしてゲストハウスのようなこともやれたらいいなって。家庭で居場所がなくなってしまった子どもたちや旅人が来て、一緒に畑をやったりする。そして災害が起こったら、一緒に被災地へ行く。人のために動くことで、お金とか人間関係じゃないなかでの存在価値を確認できるかもしれないですから。

–––– いろんな人がいて、それぞれが自分のやれることで協力しあえることを知るわけですね。

 ボランティアって、そのチームや仲間でデコボコを補うわけです。子どもがいてもいいし、女性がいてもいい。誰でもやれることはいっぱいあるわけですから。

–––– これからボランティアに参加したいと思っている人へのアドバイスがあれば。

 起きたことからプラスにどう転換していくか、ボランティアが、悲壮感や義務感を持ってやっていくと潰れちゃうんですよ。目の前に壁が現れたときに越えられなくなっちゃう。小さなことでいいから、どこかに楽しみなり希望なりを見つけて欲しいと思っています。

OPEN JAPAN (肥田 浩)

東日本大震災の約1週間後に過去の災害で支援活動を共にしてきた仲間が集結し、ボランティア支援ベース絆(現在の一般社団法人OPEN JAPAN)として活動をスタート。被災した地元の人たちとつながり、そのコミュニケーションのなかから生まれてくるニーズに対して、継続的な支援を続けている。東日本大震災以降も、数々の被災地で継続的なボランティア活動とコーディネートを実施。そこで暮らしている人たちの気持ちに寄り添った支援を、その場その場で考え、話し合い、形にしてきている。能登半島地震でも、地震の報を受け先遣隊が1月1日当日に現場入り、活動を開始している。

令和6年 能登半島地震 緊急支援(Yahoo!ネット募金)



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