和太鼓から発せられるグルーヴ。音が響くことによって、そこにあるすべてが共鳴していくような感覚。太古から受け継がれてきたリズムの記憶を、今の時代に同期させて提出しているからこそ生み出されているものなのだろう。
文 = クリススカル text = Sukaru Kurisu
写真 = 伊藤愛輔 photo = Aisuke Itoライブ写真 =Apache Daisuke Furusawa
–– 和太鼓には、どういうきっかけで出会ったんですか。
小学生の頃から、音楽は聞くものであって、楽器を演奏するとか歌うとか、一切やるまいと思って遠ざけていたんです。知り合いだったドラマーが、日本人としてドラムを叩いていくんだったら、和太鼓に触れないままでいいのだろうかって思い、自分で和太鼓も打つし、和太鼓を教えるっていうことを決めたんです。それで手はじめに「太鼓を打ちに来い」と。自分で音を出すことはしたくなかったんですけど、渋々行ったんです。バチを渡され、置かれていた太鼓の前に立った瞬間に、自分のなかにしまってあった記憶が開くみたいに「あ、この場所を知っている」って思ったんですね。打ち方を教わったわけでもないのに、身体が思い出して打てちゃった。打っていくうちに、どんどん思い出していくような感覚でした。そして帰り道に「これから私は、太鼓を打って生きていきます」って宣言したんです。何年の何月何日だったのか覚えていないんだけど、太鼓の前に立った瞬間に自分の人生がバタンって変わっちゃった。
–– 前世の記憶なのか、何か大きな力に導かれたのか。
私が一瞬でいろんなことを思い出して打ちはじめたのを見て、太鼓に導いてくれた知り合いの方も何かを感じ取ってくれて。お前に教えることはないから、自分で好きに打ったらいいって言ってくださって。そしてその人と一緒に、道場と演奏活動をはじめたんです。
–– それがGOCOOがスタートする何年前くらいのことだったんですか。
5年くらい前のことです。
–– GOCOOはどういうきっかけでスタートしたのですか。
一緒にやっていた人が、疲れちゃったんだと思うんですけど、96年の終わりになって突然に全部やめるって言い出したんです。私は、自分が頭に立って何かをやっていく人間だとは思っていなかったんですけど、太鼓を打つことをやめたくなかったから、「私が続けていく」と決意して。一緒にやっていかないかって声をかけて残ってくれたのが、今のGOCOOのコアメンバーなんです。そして97年1月に新しい道場を開いたんです。
–– GOCOOとしての初ライブは「レインボー2000」だったのですか。
道場生のなかに、アースデイに関わっている人間がいたんですね。97年4月のアースデイでアースデイパレードをするから、パレードの送り出しとして太鼓を打ってくれないかって言われて。自分たちは、いわゆる和太鼓の世界に入っていける存在ではないし、それを求めてもいませんでした。自分たちがアウトサイダーっていうことはわかっていたし、だとしたらどういう場があるのか。そんなことを思っていたときに、アースデイという場が与えられて。
–– 97年の春といえば、まだ「フジロック」もはじまっていない時期です。
その送り出しの演奏を見てくれていたのが、天空オーケストラの岡野弘幹さんたちだったんですね。岡野さんたちは「レインボー2000」にも関係していて、それで夏に行われる「レインボー2000」に出演することになったんです。本当に運良くというか、ある意味ではちゃんと用意されていた道しるべだったというか。和太鼓って古臭いとか格好悪いとか、頭のどこかではそう思っている自分もいた。自分がはじめて和太鼓を打ったときに蘇ってきたものって、自分が認識していた伝統芸能的な和太鼓ではなく、原始的な記憶だったんですね。火が焚かれて、その火を中心にみんなが輪になって踊る。「レインボー2000」で演奏したら、まさにそんな感覚になれたんです。太鼓って最初のダンスミュージックだし、最初のトランスミュージックなんだって、あらためて感じられた。みんなが踊ってくれた。
–– その後、日本のフェスや野外レイブだけではなく、海外のフェスにも数多く出演することになりました。アースデイから25年以上。メンバーもほとんど変わらずに続いている要因はどこにあると思っていますか。
GOCOO っていう単位で、自分が生きている限り果たしていく役目みたいなものを持たせてもらっているんだなっていう強い感覚があるんですね。わけもわからずにはじまったけれど、旅をするようになって、いつしか海外からも呼ばれるようになって、40カ国も回ることができた。いろんな国のフェスに出演するっていうのも、原初的な祭りっていうものが姿や形を変えてもずっとつながれていて、私たちが太鼓を打つことで人間の祭りへのスピリットを呼び起こすことになるからなんだと思います。311の後も、311から生まれた曲を持って、世界に届けに行っていた。そうすると世界中の太鼓打ちが、その曲を一緒に打ちたいっていう流れがはじまった。やり続けなきゃいけないっていうことが、次々に起きてくるんですね。今だからこそやるべきことがあるぞって、目の前にどんどん現れてくる。「続けようか、どうしようか」って迷っている場合じゃないよっていうのがひとつの理由。もうひとつの理由は、単純にGOCOOが楽しいから。97年から20年近く、本番がない限り、土曜日曜は必ず道場に集まって、みんな3で8時間打っていた。GOCOOで演奏したり練習したりすることが、圧倒的に楽しいしおもしろいですから。
–– GOCOOは、グループというよりも一種の共同体のようなものなのかもしれないですね。
本当に個性的な人間ばかりなんですね。よく25年も変わらないメンバーで続いているって言われますから。私自身そうなんだけど、ひとりひとりが独立したミュージシャンではないんですよ。今でも私は、ミュージシャンでもないし太鼓打ちでもない。GOCOOなんだと思う。GOCOOという生き物であり、その生き物のいろんな部分をひとりひとりが担っている。みんな歳を重ねるごとに歪になっていく。歳をとると丸くなるっていうのは嘘だなって思うくらい(笑)。その歪さが、結局はGOCOOの噛み合う形何ですね。
–– みなさん、年齢とともに、自分の新しいスタイルを進化させているのかもしれないですね。
物理的な人間の身体としては、もちろん限界があるんでしょう。けれど10年前20年前の自分より、ある部分で打てている。魂で音を出す、そこにいるみんなの思いを受け取って打つ。みんなのエネルギーが私のなかを通って循環して、さらに大きなものとなって出ていく。太鼓が、その場に起きていることを司ることができるくらいの力を持っているものだとしたら、パワーで打ち鳴らすだけではない何かがあるはずですから。
–– 去年、スタートさせたライブシリーズが「共鳴する生き方」。まさに共鳴なんですね。
音楽っていうものが未だによくわからないけど、私にとって音楽を通してできることって、共鳴だなって思っています。つまるところ、振動によって、みんながとことん揺さぶられて、身体にしても概念にしても、覆いかぶさっているものを振動によって吹き飛ばすことかなって。
1997年に結成。同年に富士山のすそ野で開催された「Rainbow2000」でライブデビュー。以降、「フジロック」「朝霧JAM」といった日本を代表する野外フェスだけではなく、アンダーグラウンドで開催されてきたパーティーにも出演。JUNO REACTORと協演し「Teahouse」は映画『マトリックス』のサウンドトラックに採用された。近年ではサカナクションのツアーにも同行している。海外でのライブは40カ国を数える。7月30日には、自主イベント「太皷人の祭り タヲリズム 2023」を浅草公会堂で開催。
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