存在の革命。サイケデリック文化の在り処。【おおえまさのり】

60年代中盤のアメリカと70年代初頭のインドで体験したスピリチュアルな旅。自分という存在を追い求めた先にあったのが八ヶ岳での暮らしだった。

文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi
写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchutaishi☆Star


— おおえさんは1967年にニューヨークで行われた〈ビーイン〉を映像におさめ、映画『HEAD GAME』を作られました。そもそも、なぜアメリカに行こうと思ったのですか。

おおえ 大学時代に彫刻を専攻していたのですが、当時のアメリカはアンディ・ウォーホールなどのアヴァンギャルド・アートが出てきた時代でした。そういうものに興味を持って、映画を作りたいと思うようになったんですね。大学を出た年に前の東京オリンピックがあって、はじめてパスポートが持てるようになった。海外に自由に行けるようになったんです。当時の日本は、映画を自由に撮るのは難しい時代で、じゃあニューヨークに行こうと。それで1年間アルバイトして、ニューヨークに行ったわけです。


— ニューヨークでは、すぐ映像を撮ることができたのですか。

おおえ たまたま日本で紹介してもらった人の友人が、コロンビア大学で映画を教えていたんです。そしてダウンタウンのイーストビレッジで、若者のためのスタジオを持っているというので、紹介してもらってそこに行ったんです。行ったその日に、これからパーティーに行くというので、連れて行かれたのがティモシー・リアリーのサイケデリック・ショーでした。


— それはサイケデリック・カルチャーの起源のひとつと言っていいイベントだったのではないですか。

おおえ そうですね。ティモシーやアレン・ギンズバーグが出てきて話をする。そこに映像が投射される。ショーが終わってからアフターパーティーにも連れて行かれたんです。サイケデリック文化が、当時は日本にはまったく入っていなかったから、僕は登場していた人たちのことを全然知らないわけです。最初に紹介されたのがティモシーで、次がギンズバーグ。その次がリチャード・アルバート。後に『BE HERE NOW』を出したラムダスですね。スタジオの若者たちにしても、サイケデリック文化に触れるのははじめて。それが65年暮れのことです。映像も勉強しながら、無理なくスタジオの人たちと一緒にサイケデリック文化に入っていけたんですね。


— その流れで〈ビーイン〉に入って行ったのですか。

おおえ サイケデリック文化への関心はニューヨークでも高まっていて、1967年1月にサンフランシスコで〈ヒューマン・ビーイン〉があり、それを受けてニューヨークでもやろうということになって、4月のイースターのときにセントラルパークで開催されたんです。

— おおえさんにとってアメリカはどういう存在だったのですか。

おおえ 3歳で終戦を迎えました。死を突きつけられて戦火のなかを逃げ惑った記憶があるんですね。戦後になって、日本の価値観が壊れてしまい、アメリカの文化がどんどん入ってくる。アメリカが世界でした。しかし僕の意識のなかのどこかに「死」というテーマがずっとあるんです。死という問題を解決しないと前には行けない。それを解いてくれたのがサイケデリック体験でした。


— 心を解放することがサイケデリック体験からおおえさんが得たものだったのですか。

おおえ サイケデリック体験を通して死を受け入れることで個が宇宙に解き放たれたんですね。この宇宙的な〈意識、精神、魂〉を、〈わたし(個的な自我)〉と言ってしまったのが、すべての存在の問題のはじまりだったのだと。僕にとって60年代という時代は、アートにしろ何にしろ、日本で本を読むだけでは掴みとれないものだったんです。探れば探るほど世界が離れていってしまう。ニューヨークに行って一番良かったのは、自分という存在に自分がたどり着けたこと。自分が世界の中心にいるという感覚。自分が自分のところにいて、そこが中心である。やっと世界の中心、自分の中心にたどり着けたっていうことが大きかったですね。そしてそこにすべてが包み込まれてあったわけです。


— その後帰国なさってから、次はインドへ向かった?

おおえ たどり着いてきたこの〈存在〉の本質って何かを明らかにしたという思いがあって、インドにいくことを決めたんですね。インドでたどり着いたのが〈今ここ〉。昨日の自分は記憶のなかにしかいないし、明日の自分は予定のなかにしかいないわけです。だから今ここにしかない自分。それは存在の絶対原点なんですよね。


— おおえさんは『チベットの死者の書』を翻訳するのですが、英語で書かれたものをお読みになったのですか。

おおえ アメリカにいたときに、ティモシー・リアリーが『チベットの死者の書』をモチーフにした『サイケデリック・エクスペリエンス』というサイケデリック体験をするための心構えの本を出したんです。それは知っていたんですが『チベットの死者の書』の原書は知りませんでした。インドで知り合った旅人に「エベレスト街道に行ってみれば」と言われたことが頭に残って、エベレストの麓まで行ったんです。映画のカメラを持っていったんですけど全部盗まれてしまって、日本からカメラを送ってもらうのに1ヶ月半くらいかかったんですね。ちょうどそのときカトマンズの本屋さんで『チベットの死者の書』の英語版を見つけて、それを読みはじめたら自分がサイケデリックで体験したことの意味っていうか、自分の存在の謎を解いてくれる鍵があったんです。そして日本に帰ってきて翻訳したんです。


— ご自身で出版なさっています。

おおえ いくつか付き合いのあった出版社に声をかけて、編集部段階ではおもしろそうだと言ってくれてはいたのですが。当時はチベット仏教ではなくラマ教と呼ばれていました。日本の密教の人たちからは左道密教、邪教だと言われていて。なかなか出版が決まらないのなら、自分で出したほうが早い。自分で出すのなら製本屋さんにお願いするのではなく、自分たちのスタイルで出そうと思って、チベットの経典のスタイルにして、和綴じ風に綴じて、手作りで出版したんです。次の『ミラレパ』の本を出すころには、インドから帰ってきたばかりで行き場のないという若者がいっぱいいて、そういう人たちが東京の我が家に住みはじめていたこともあり、彼らに製本を手伝ってもらったりしました。

— しばらくして八ヶ岳に移住なさった。自然の近くに住みたいという思いは持っていられたのですか。

おおえ 部族とか共同体運動とか、自然のなかで暮らそうっていう思いを共有して持っていた時代ではあったんです。コミューン運動も日本では盛んな時代でした。僕の場合は、自分という存在を解き放ち続けていくその延長線上に自然があったわけです。


— おおえさんはコミューンに入るという考えはなかったのですか。

おおえ なかったですね。コミューンよりも、ひとりひとりが独立していることが大切で、その先にコミュニティを作っていくということのほうがリアリティがあると考えていました。


— 自然の近くに暮らすことで、どんなことを感じましたか。

おおえ 自然農をやったりしていますけど、人間は自然に支えられているだけではなく、自分が自然なんだっていうことに、あらためて気づかされました。自然から生み出された〈魂〉なんだと。

— 今年 (2021年)は、ちょうど911から20年の年でもあります。

おおえ 911の後は、アメリカが一丸となって報復に向かっていった。僕らが体験してきた60年代のサイケデリック・レボリューションや意識革命、そしてニューエイジ。そういうものはどこに行ってしまったのか。本当にショックでしたね。


— 多様性があることこそ、アメリカの良心だったように思います。

おおえ 60年代にはベトナム戦争があって、ベトナム戦争反対ということが言えたんですね。そういうことが、言えない雰囲気になっているように見えましたね。60年代は意識や存在や社会を解き放つ活気に満ちた時代だったと思います。そういうものが持っていた力は、今も僕たちの内にあるはずです。


— コロナという時代になって、自分が自然であることを知る大切さが求められているように思います。

おおえ 人間があまりにも自然から離れすぎてしまっています。スマホのなかには様々な情報があると思うんですが、そこでは自分そのものとは出会えないですから。自分が今ここに存在しているっていうことが一番の不思議なんですよ。不思議を見るのはこの〈自分〉なのですから。自分がここに存在しているっていうことはどういうことなのか。その不思議を見つめ直しながら出発していくことが今こそ必要で、そこから存在の革命とでもいえるような豊かな広がりが出てくると思うんです。


おおえまさのり
65年に映画制作のためニューヨークに渡り、スピリチュアル・ムーブメントと出会う。70年代前半にはインドを旅してチベット仏教に出会い、『チベットの死者の書』を翻訳し出版。以後精神世界やニューエイジの展望を切り開く企画・出版・学塾などに携わっている。83年に八ヶ岳に移住。88年8月に八ヶ岳で開催された<いのちの祭り>では実行委員長を務めた。近著は60年代の体験をまとめた『魂のアヴァンギャルド―もう1つの60年代』。自身の出版社「いちえんそう」で出版を続けている。https://ichienso.web.fc2.com/


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