語られることがなければ、消えていってしまう震災の体験。ひとりひとりの話を、聞き手である自分を消し、ひとりひとりのモノローグ(独白)としてまとめた。忘れてはいけない真実の物語がそこにはある。
文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano
ー 東日本大震災後、はじめて被災地に行かれたのはいつ頃だったのですか。
いとう 直後ではなく1年経ってからでした。お亡くなりになってしまった園芸家の柳生真吾さんに、「宮城県の三陸に自分たちが持って行った球根の花が咲くから、一緒に見に行きませんか」と誘われたのがきっかけです。現地に残っていらっしゃる方とかボランティアで入っている方とか、いろんな方々の話を聞きました。例えば三陸の歌津では「あそこの杉の木の上に遺体が引っ掛かっていて、なかなか我々の力では降ろしてあげることができなかった。それが心残りなんだ」っていう話を違う人から何回も聞いて。それで『想像ラジオ』の設定を思いついたんですね。
ー 『想像ラジオ』が刊行されたのは大震災から2年後の3月11日でした。
いとう すごくセンシティブな小説なので、取材で解釈が違う記事が出たりすると人を傷つけてしまう可能性があるので、一切インタビューを受けなかったんです。当事者ではない人間が、どこまで表現できるのかという大きなテーマをその小説は抱えていました。しばらくして、東北学院大学と河北新報などが組んで、僕を呼ぶという話になったんです。やっぱり東北の人に呼ばれたら、喋らないわけにはいかないって思って、吊るし上げられることを覚悟で行ったんです。そのときに、福島で取材を続けているNHKのディレクターの方などに出会って、「福島を見てもらいたい」と誘われて、一緒に行くことになったんです。そして福島でも、いろんな方に話を聞かせてもらいました。『想像ラジオ』は死者の話を電波で受け取っていく死者の話なんですけど、これからは僕が生きている人たちの話を受信しなきゃ駄目だなって思ったんですね。そして受信したものを発信する役目もあると。
ー それが被災した方々の話をお聞きしてまとめた『福島モノローグ』につながっていったのですか。
いとう 最初は東京新聞の「話を聞きに福島へ」という連載でした。この連載では、なぜ僕が福島に行っているのかというような説明も必要で、僕の言葉も若干は挟まる記事でした。取材がはじまる当初から「僕の意見とか僕の言葉をなるべく減らして、相手の方が言っていることを多く載せてください」とお願いしていました。
ー 福島の方々のお話を聞くことで、いとうさんが自分に課したのはどんなことだったのですか。
いとう 福島の方、東北の方は、絶対に自分たちの苦しみを外に言わない。ものすごく我慢強い方々なんですね。東京の人間に言ってもしょうがねえだろうっていうことはたくさんあります。町のインフラでも経済でもなんでも傷はあるんですけど、福島のみなさんが負った心の傷はもっと深いものがある。その心の傷は置いていかれて、経済的な復興ばかりが優先される。みなさんの話を聞いているうちに、傾聴という言葉が出てきました。とにかく徹底的に寄り添って話を聞く。傾聴をしにとにかく福島に行くということが僕の役割なんだと。僕が聞いてはいるけれど、本当は僕じゃなくてもいい。だから、誰かが話を聞きに行っているという事実が一番大きなことなんですね。
ー いとうさんの存在を消すということが『福島モノローグ』のひとり語りになっているのですね。
いとう できるだけ僕という存在が出ないように。伝えたいのは、人の語りそのものだから。新聞の連載が終わったのだけど、僕は「話を聞く」ことを続けたかったので、『文藝』に取材の言葉だけで構成するノンフィクションをやらせてくれないかって売り込んだんです。『想像ラジオ』では勝手なことを書いているわけだから、自分としては処罰意識みたいなものもあったんですね。モノローグだとその人が話したいことが全面に出てくる。自分を消して、相手の方を徹底的に立たせたいという気持ちがモノローグになっているんです。一番大事なことは、とにかく語る人に会いに行くっていうこと。その人の気分が悪くなるようなことを絶対にしてはいけない。だから原稿ができたら最初に相手に送って読んでもらって、切りたいところは切ってもらっています。残しておきたいショッキングなところも削られているんですけど、それでも『福島モノローグ』には人の心をえぐるものがありますから。
ー 福島に通うことで、いとうさん自身に変化はありましたか。
いとう 実際に人間に会って話を聞くことによって、把握の仕方が変わりますよね。本当はこんなことが起きていたんだということもよくわかる。文字ではない体験を、極力文字でも伝わるようにすることが、僕ら作家の仕事ですから。
ー 本にしたことによって、みなさんの体験が残っていきます。
いとう 僕が話を聞いているのだけど、同時に多くの人が聞いているような形にしたい。なぜならば、語られなければそのままお墓のなかに入っていく話だから。そういう話が、被災地には今もたくさんあるわけです。それを誰かが聞いていかないと、放射性廃棄物じゃないけど、ただただ人の心のなかに溜まっていってしまう。それはやっぱり辛いことだと思う。大震災から10年が経って、語られることも少なくなり、語られたとしてもそれを伝えるメディアはどんどんなくなってきています。だから僕は、河北新報でも『文藝』でもこれから新しく連載をはじめ直しますし、「話を聞くこと」をしつこく続けたいと思っています。
ー 福島と付き合っていくことのひとつの現れとして、いとうせいこう発電所もあるのでしょうか。
いとう もともと我々が再生可能エネルギーというものをきちんと自分たちで使えるのかということをずっと考えていて、少なくとも僕らが単に需要側に立っているだけじゃなくて、発電所側にも立てるという企画につながっていったんです。みんな電力と付き合っているうちにそういう話になっていって、それはおもしろいなって。まずはアーティスト電力という枠組みでいとうせいこう発電所をつくらせてもらって、契約してもらうと、自分たちが使っている電力の何パーセントかに自然再生可能エネルギーが入るかという形でやっています。それでどこにどの発電所を置きましょうかという話をみんな電力から聞かれたときに、できれば福島だよねっていうのが、僕というかお互いに納得できた着地点だったんですね。他のところに作るんだと意味が全然違ってくるし。いとうせいこう発電所は耕作放棄地に建てているので、耕作されずに田畑として使われていないところをリユースする形で発電所にしているんですね。理想としてはソーラーシェアリングという、パネルの幅が狭くて、その隙間から太陽光が入り、パネルの下で農作物をつくれる畑になっているところなんですけど。
ー 車で走っているとソーラーシェアリングの発電所も見かけることがあり、増えているように感じています。
いとう メガソーラーみたいなものは山を切り崩して作っていて、めちゃくちゃ環境を破壊しているわけです。今もその開発は進んでいるけれど、それは決してしちゃいけないこと。今は福島県二本松市の耕作放棄地ですけど、いずれは福島県内のソーラーシェアリングの場所も目指して動いていきます。
ー 今後の福島はどうあるべきだと思っていますか。
いとう もちろん福島の人たちが決めることが大前提としてあります。すごく大きな災害、そして人災があったことを再出発地点として、そこから自分たちの未来もいい方向に変えていくということがやっぱりあると思います。それが自分たちの誇りにもなるだろうし、メンタルケアにもなるだろうし。新しいエネルギーの問題とか、被災をした人たちはどういうふうに立ち直っていくんだとか、どういう物資がそのときには必要だったのかとか。僕は被災学と呼んでいますけど、被災での体験によってリードをできるんじゃないかと思っています。気候変動で、日本のみならず世界で災害がめちゃくちゃ多くなっているわけですしね。福島の方々がこれをやりたいって決めたのなら、できる限りのことはしたいなって思っています。
いとうせいこう
編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字、映像、舞台、音楽、ウェブなど、あらゆるジャンルに渡る幅広い表現活動を行っている。1988年に『ノーライフキング』で作家デビュー。東日本大震災を背景に、生者と死者の新たなな関係を描いた『想像ラジオ』を2013年に発表。震災10年になる今年、震災で生き方を揺さぶられた女性たちの声に耳を傾け、その言葉を丁寧に記録した『福島モノローグ』が刊行された。アーティストの発電所でつくられた電気を買える「アーティスト電力」の第一弾として、いとうせいこう発電所が2021年に始動。https://www.cubeinc.co.jp/archives/artist/itoseiko
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