日本を代表するグレイトフル・デッドのカバーバンドとして、アメリカのデッド系のフェスからも招待されたことがあったWarlocks of Tokyo。OSHINO DEADには第一回目からラインナップされている。グレイトフル・デッドとデッドヘッズが生み出す文化を日本に伝えたい。その思いは30年以上、変わらない。
–––– ケンさんがグレイトフル・デッドを聴くようになったきっかけから教えてください。
グレイトフル・デッドという名前をはじめて聞いたのが、高校1年か2年のとき。高校の文化祭のためのコンサートがあって、友だちのバンドが出ることになったの。キャロルのカバーをやっているバンドだったんだけど、「Johnny B. Goode」を演奏することになって、彼らがコピーするために参考にしたのが、『Fillmore:The Last Days』からシングル盤として日本でリリースされた「Johnny B. Goode」だったの。
–––– そんなシングル盤がリリースされていたのですね。
そのシングルを聴かせてもらったら、「何、これ?」っていう感じで。そこからはズルズルと、友だちが持っていたデッドのレコードを借りて。『Skull & Roses』をすごく聴いた。自分でもびっくりするくらい曲も覚えちゃって。「これは僕が求めていた音楽なんだ」って思ったよ(笑)。
–––– もうギターは手にしていたのですか。
ギターをはじめたのは中学2年か3年。フォークブームだったし、岡林(信康)さんがとにかく好きで。コードを弾いたときに、一発ではまっちゃって。こんなすごく響きのいい音楽があるんだって思って。高校になって、気持ちがフォークからエレクトリックになっていったんだよね。
–––– 高校時代にはケンさんもバンドを組んでいたのですか。
ジャグバンドを高校の文化祭でやったの。その後、ブルーグラスにはまってバンジョーを買ったこともあったね。ジェリー・ガルシアの流れとちょっと似ている。
–––– 自分でデッドのカバーをやるようになったのは?
もう50年以上も前のことだからよく覚えていないけど(笑)。高校のときに、ミネソタファッツっていうエレクトリックバンドをはじめたんだよ。当時、久保田麻琴と夕焼け楽団とかオレンジカウンティブラザースとか、おもしろいアメリカ系バンドっていっぱいあったの。その末席にいたっていう感じなんだけど、デッドの曲をこのバンドでやりたいって思っていて、「Goin’ Down the Road Feeling Bad」をやろうよって提案して。それがフルスペックでカバーしたはじめての曲。『Make Believe Ballroom』っていう海賊盤があって。1975年8月13日にサンフランシスコのGreat American Music Hallでのショーの音源。それもレコードだったんだけど、高校を卒業した頃にこのライ盤ブを聴いて「もう、これしかない」って思ってしまって。決定打になったというのかな。こんなことを自分でもやりたいと思ってね。
–––– 自分でもやりたいと思ったのですね。
なんとかやれないかなっていうほうが正しい表現かな。こういうフィーリングを持った音楽をやれないかなって。
–––– ケンさんのファーストショーは?
79年から80年へのニューイヤーズ・ラン。その前年にウインターランドのラストショーを見に行こうっていうツアーが企画されたのね。それに行きたかったんだけど、アメリカに行く準備ができていなくて。お金も貯まっていなかったし。そのショーの良さを聞いて、翌年には必ず行こうと決心して。バイトしてお金を貯めて。
–––– チケットはどうしたのですか。
当時は、ベイエリアのレコード屋さんとかヘッドショップに行くとチケットが買えたんだよ。オークランド・オーディトリアムでの12月26日からラン。現地に知り合いもいないし、会場にどうやって行っていいのかもよくわからない。特攻隊のような気分だったよね。けれど不安というよりも、はじめてライブを見られるっていううれしさ。チケットをゲートで渡して、会場に入って、まず驚いたのがその雰囲気。会場内がブルーとピンクのライトが混じっているような、すみれ色のような照明に包まれていて。小さな音でピンク・フロイドがかかっている。フロアではバレーボールをして楽しんでいる。
–––– 僕もオークランドコロシアムでのファーストショーのときに、バレーボールをしているのを見ました。
その光景にびっくりしちゃって。「ここ、楽しすぎるじゃん」って。日本のコンサートって、ライブがはじまる前は無味っていうか、ライブだけを待っている時間というか。ライブがはじまる前もショーの一部で、こういうフィーリングっていうか、こういう場所が日本にもあったらいいなって思ったの。日本でも野外コンサートとか楽しいライブ空間ってあったんだけど、グレイトフル・デッドの音楽をやって、こんな雰囲気の1日を日本でも作りたいなって、ちょっと妄想を描いた。それでデッドのライブがはじまってからは、もう夢の中。デッドが僕のために演奏してくれているって思い込んでいたから。
–––– 僕もそう感じていました。ジェリー・ガルシアが僕のために今日は演奏してくれているって。
そうだったでしょ(笑)。「俺の好きな曲ばっかりじゃん」って。デッドのライブを体験できて、本当にありがたかった。こんな世界を見せてくれて、感じさせてくれたわけだから。
–––– グレイトフル・デッドの楽曲をカバーするWarlocksを結成したのはいつだったのですか。
最初はTokyo Warlocksだったかもしれないね。90年代に入るか入らないかっていう頃に、英語の先生になるために多くのアメリカの人が日本に滞在していたんですよ。デッドヘッズも少なくない。下北沢に「ぐ」というお店があって、そこでデッドヘッズが多く参加するパーティーがあるから、一緒に演奏してくれないかって声をかけてもらって。声をかけてくれたのはChina Catsのオハルなんですけどね。デッドの曲をやったら、とにかく受けちゃって。こんなに受けるのならやれるかもって思って(笑)。
–––– アメリカにはデッドのコピーバンドが数多くありますし、日本でデッドの曲を演奏してくれるバンドがあれば、デッドヘッズは大喜びすることは間違いないですから。
梅島に「ゆーことぴあ」がオープンしたのが確か91年。オープンしてすぐに、ライブをやらないかって声をかけてもらって。知り合いに声をかけて、やってみようって集まったのが、そもそものはじまり。みんなで楽しもうっていうのが根本にあってね。それは今も変わらない。デッドが好きで、おそらくアメリカのデッド文化を伝道しようと思ってオープンさせたお店だったから、「ゆーことぴあ」には自由さがあったんだよね。自分たちもカゴから解き放たれた鳥のように、やりたい放題(笑)。20時くらいにショーがはじまって、3セット4セットは当たり前だったから。
–––– デッドの曲を日本語の訳詞で歌うようになったのは?
81年にデッドを見に行ったときに、体調が悪いにもかかわらず無理をして、かなりバッドになったことがあったんだよね。「本当にこれはヤバい」って思ったほど。救護ルームまで連れていかれるぐらいの事態に陥ちゃった。なんとか動けるようになってショーに戻ったけれど、やっぱり調子は悪いまま。デッドが演奏し、ガルシアの声が聞こえてくるんだけど、歌の内容がよくわからない。「今、どんなことを歌っているのかな」ってすごい気になってしまって。俺にとってデッドは神様であり、そのときの体調を助けてくれたり、心を戻してくれる唯一無二の存在だったからね。だからどんなことを歌っているのか知りたくなって。「彼らのメッセージを知らないままでいいのか。解き明かしたい」って思って。デッドの歌詞の深さというかおもしろさを、日本の人たちにも伝えられたらなって。
–––– 確かにそうですね。歌詞を理解したほうが、より深くデッドの世界に入っていけるわけですから。
最初はもろ直訳。字余りのまま歌っていた。自分で訳すことで、「こういうことなんだ」っていうことも少しずつ理解していった。きっとデッド研究なんだろうね。今でもやっているよ。訳詞は完成しない。自分が年齢を重ねたことで、見方も変わってくる。そのときの自分に合う言葉。「Shakedown Street」は、最近新たになった。バージョン5くらい(笑)。自分が訳したものだけではなく、他の方が日本語に訳したものも歌っているよ。
–––– 英語がネイティブの人たちにとっても、年齢によって歌詞の受け取り方って変わってくるんでしょうね。
絶対にそうだと思う。ロバート・ハンターとジョン・バーロウの詞。アメリカ人が羨ましく思ったなあ。彼らの詞がダイレクトに入ってくるんだから。デッドがデッドとして存在していること。デッドとデッドヘッズが構築する文化。アメリカにはいろんな問題があるけど、デッドという文化はアメリカにしかできない一番いい部分かもしれないね。
–––– そうですね。デッドとデッドヘッズというコミュニティが未だに形成されていますから。結成して60年、ジェリー・ガルシアが亡くなって30年も経っているのに。
アメリカではカバーするバンドも増えているしね。去年はサンフランシスコでデッド60も開催された。そして日本にいる僕らだって、こうしてやれているんだから。
–––– OSHINO DEADが開催されることも、日本にも確実に伝わっているから証ですね。
まだ忍野のエッグスタジオが会場だった頃、今以上に緩くて、2セットやる時間をもらえたんだよ。 ファーストセットのときは静かだった。セカンドセットがはじまっても、まだ静かだった。それが徐々にステージ前に人が集まって来て、一気に爆発して。グレイトフル・デッドを楽しむっていうことが、やっと日本でも認められたっていう気がした。不思議な旅が日本でもはじまったんだよね。
–––– OSHINO DEADが7年ぶりに開催されることに対して、どんな思いがありますか。
コロナによって世界が変わっていったじゃない。だからOSHINO DEADがコロナを越えないっていうこともありかなって考えていたんだよ。だけど復活して開催されるっていうことを聞いたときはうれしかったね。
–––– カウンターとしてのグレイトフル・デッド。なんとなくそのこともあらためて噛み締めています。
今年、OSHINO DEADが開催されることって、ある意味では必然なのかもしれないなと思います。時代が本当に混迷している。戦争は続いているし、人間そのものが嘘の時代に突入しちゃって、誰も信用できないなんて恐ろしい時代になってきているからね。そういう時代にグレイトフル・デッドをみんなで再確認する場所があるっていうことは、決して悪くないっていうか、めちゃくちゃいいことなんだと思う。自分の生き方に大きな影響を与えるっていう意味においての若い頃の体験っていうか冒険って、本当に大切じゃない。デッドという冒険。その1ページになるOSHINO DEADが日本にあるっていうことは素晴らしいことだと思うよ。
OSHINO DEAD 2026
at AUTOCAMP MOGURA ーNumazu, Shizuoka
3月20(金)-22(日)
Gates Open 3/20 9:00/ Festival Starts 12:30
Ends 3/22 15:00
TICKET ¥18,000[税込]
500枚限定 / 3日券のみ
▶︎Info:DEAL
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