【Sardine Headインタビュー】コミュニティのなかで構築〜継続されたきたライブ空間。

2025年、活動25年を迎えるSardine Head。昨年末に12年ぶりとなるアルバムをリリースした。コロナ禍においても、自分たちのスタンスでライブを続けてきた4人。ジャム〜インプロビゼーションというシーンのなかにおいても、唯一無二の音楽を構築し、継続してきた。Sardine Head。長きにわたってバンドとして活動を継続させること、そして新作について聞いた。


文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi
写真 = 須古 恵 photo = Meg Suko

― 2000年の結成で今年で25年を迎えます。まず結成の経緯を聞かせてください。

丈二 もともと小林くんとバンドをやっていたんです。18歳の頃に出会って、何かしらずっと一緒にやっていて。だから35年くらいになるのかな。

― かなり歴史がある(笑)。

丈二 川田さんはそれよりも古くて、高校時代にギターを教わっていたんです。だからもうすぐ40年。メジャーからリリースしたバンドとかもやったりしていたんですけど、そのバンドが終わって、別のことをやりはじめたいなって、小林くんと川田さんに声をかけたんです。はじめた頃はベースは違うメンバーで、2年後くらいに湯浅くんに変わって。2000年ってPHISHが来日した年だったんですよ。ジャム系の音楽が、いろんな意味で注目されるようになっていたじゃないですか。じゃあそんなフォーマットでやってみようって。

― 最初からライブをやるうえでのバンドの骨格にジャムがあった?

丈二 ジャムをやるっていうよりも、楽曲のフォーマットがあるなかでジャムの要素も加えていく。PHISHだけではなく、川田さん、僕も好きだったオールマン・ブラザース・バンドにもその要素があったし、ジャズでもメデスキー・マーティン・ウッドとか、当時ってかっこいい音楽がいっぱいあって、そういうところで自分たちなりの音楽やライブができないかなって思ったんですよ。自分たちのやりたいこととシーンの盛り上がりが重なったという感じです。インストっていうくくりは、わりと最初の頃からありましたね。

― ライブが決まってからのスタートだったの?

丈二 最初はスタジオでしたね。スタジオに集まって音を一緒に出して。それが2000年の秋くらい。それでその年の12月に初ライブでした。

― そのスタジオでは自分たちの曲を作っていたのですか。

丈二 PHISHの2000年のライブがあまりにも強烈で。あの人たちって、プレイヤーとしての魅力もそれぞれが兼ね備えているので、楽器をやっている人間ものめり込みやすい。全部の楽器が、かなりのレベルのバランスで保たれているバンドなのかなと思う。曲も個性的だし、そこからジャムによって導き出される世界観もすごくいいなって思って。それで、ある程度の曲の構成を決めてやりはじめたんです。

― PHISHによってライブに対しての見方というか捉え方も変わった?

丈二 僕は東京のZEPPでしか体験できなかったのだけど、ライブが2セットで構成されるっていう概念がなかったんですね。ファーストセットが90分くらいやったのかな。アンコールはないなって思ったけど、この90分だけでも大満足だったんです。「見に来て正解だった」なんて思って帰ろうとしたら、外人さんがアルコールを買って飲みはじめている。「何かがはじまるのかな」って思って会場に残っていたら、またライブがはじまった。そのときに「2セットっておもしろいな」って実感したんです。2セットでその夜の物語を作る。そんなことも、新しいバンドではやってみたいなって。

川田 当時のジャムバンドってライブが活動の主になっていたじゃないですか。実は、2000年12月の初ライブから、サーディンヘッドはライブ活動が止まったことがないんです。ほぼ毎月のようにライブをしていました。

丈二 一番長く止まったのがコロナのとき。それでも空いたのが4カ月でしたね。

川田 そのライブが止まってしまったときは、それぞれの自宅で録音して、それをメンバーで共有して。それを湯浅くんが編集して、小林くんが映像をつけて配信して。

丈二 コロナ禍でライブすることの制約はいろいろあったけど、それでも自分たちなりの活動を続けていたんです。ライブもしていた。それが1年ちょっとくらい前に「久しぶりに録音してみようか」っていう話になったんですね。

― 前のアルバム『RECONNECT』のリリースが2012年でした。

丈二 フリーライブをやったり、映像作品を作ったり、自分たちでは新しい試みをしてはいたんです。けれど、アルバム制作という部分にはいたらなくて。

― アルバム制作のきっかけのひとつがコロナ禍だった?

丈二 コロナがきっかけだったというわけではないと思いますね。

小林 音源の制作方法という部分では大きかったと思います。リモートでやり取りをすることが多くなったし、何回も聞かなきゃいけないし、そのことによって客観的に音源と向き合えることができたし。ライブだとどうしても流れていっちゃう。自分なりに気がついて、その後のライブでやってみたことも少なくなかったんです。自然と、結成して20年以上になるし、年齢を重ねているし、この音は録音しておいたほうがいいなと思うようになって。その思いがここ2年くらいで大きくなっていたんです。

― コロナって音楽家にとってはどんな時代でした?

小林 時間があることでいろんなことに向き合えて、いろんな可能性を見つけることができました。いろんな可能性を自分なりに模索して、自分にとっては大切な時間になりましたね。コロナを経て、また以前のようなライブ活動に戻れることができた。もしコロナ禍が続いてライブに戻ることができなかったら、かなりきつかったんでしょうけど。戻ることができたからこそ、今では充電期間のように思えるし、その時間が結果としていい部分ももたらしてくれていると思います。

― その充電されたものが、12年ぶりとなるアルバム『strolling』に現れているのですね。

丈二 まず3曲録って。その出来上がりを聴いて、「このまま進めていこう」っていうことになったんです。前のアルバムから12年が経っているんですよ。ライブでのセットリストは変わっている。ここのところのライブで演奏しているのは、アルバムに収録されていない曲ばかりなので、それを録ってみようと。だから演奏しなれた曲が多いんです。

― 12年と今では発表する媒体が変わっています。今ではサブスクが主流と言っていい。この状況で、あえてCDというメディアを選んだのは?

川田 CDを聴く時間って、確かに自分も減ってきています。

丈二 音楽をイヤフォンで聴く人が多いと思うんです。だけど実際にCDになって、CDでスピーカーを通して聴くと、やっぱりいいなって思う。イヤフォンとスピーカーでは聴こえ方が違うし。

― 録音したものをチェックする際には、スピーカーとイヤフォンと、どちらで確認しているのですか。

川田 チェックはイヤフォンでした。

丈二 イヤフォンだと細かいところまで聴こえてくるじゃないですか。イヤフォンで聴いてOKだと思っても、スピーカーから聴こえてきたときにはちょっと違うかなっていうこともあるし。判断基準が難しかったですね。

― レコーディングの際の、サーディンならではのこだわりはあるのですか。

川田 みんなが「せーの」で演奏する一発録りです。

丈二 そのときのフィーリングが音に入っているわけだから、パートごとに録るというのは、うちらにとってはおかしな話なんです。「失敗してしまった部分をもう一回」というのは許されない(笑)。一緒にやって決める。

― 前と今では、自分たちの音楽は変わっていると感じていますか。

丈二 全然違いますね。アルバムでは毎回違っていると思っています。一番変化があったのは1枚目と2枚目ですが。

― それはどういうところで?

小林 大まかに言うと、演奏を楽しむということよりも楽曲そのものに向かって行ったというか。

丈二 1枚目の『parallel lines』は、まだ混ざってないっていう感じがあるんです。それぞれがそれぞれのパートを演奏している。それをみんなでぶつけあったのが2枚目の『shuffle』でした。やっとバンドになれたっていうか、4人が交わっていったというか。

― その交わりというのは新作まで繋がっているのかもしれないですね。

川田 みんなで「せーの」で録るっていうことは、その場で交わる空気を大事にして演奏しているということ。ライブで演奏する形には近いのですけど、環境が違うから違う音になっています。

丈二 なるべく、他の音が被らないようにマイクを立てて録っているんです。ある意味、普段のライブでは「ここが特徴的な部分」っていうものが消えているところもあるんです。消えるというか聴こえない。楽器の特性的な部分が、必ずしも100パーセント活かされている状態ではないんですね。それをミックスして、マスタリングする過程で、パッと広げましたっていう感じなんです。4人で一緒に演奏しているというおもしろさや濃密さ、ダイレクトさを活かしつつ、細かな音も抽出している。ライブで客席にバーンと出しているのとは、ちょっと違う音になっています。どちらかと言うと、ステージにいる我々が聴いている音に近いと思っています。それを今回のアルバムでは出している。

―結成して25年。今のメンバーになってからも20年以上。コンスタントにライブも行いながら、これだけ継続しているバンドって、なかなかないと思います。長く続けてこられた秘訣ってなんだと思います?

小林 無理をしないってことだと思います。

丈二 正直言って、ラッキーでしかなくて。バンドって続けることが一番難しいと思うんですね。

川田 お客さんにも恵まれていたと思います。

丈二 「このメンバー、すごく相性はいい」ということで、一時的に結束するバンドもたくさんあると思うんだけど、僕たちの場合は、それぞれのスタンスを絶対に尊重するっていうことが根底にあって。

小林 それぞれの事情があって、ライブをやりたくてもやれない場合もある。けれど難しいのだったら無理してもしょうがないって折れてくれる。真ん中で丈二くんがバランスを取ってくれているんですよね。

丈二 長く続けることによって、共通言語みたいなことが生まれてくるんです。それぞれルーツは違うけれど、それが熟成されていく正しい道筋っていうものがやっぱりあって。それって相性だけじゃないんですよね。長く続けられたことで、自分たちの財産になっているものだと思います。

― さらに熟成されていくことを、自分たちでも楽しみにしている?

川田 サーディンヘッドは自分にとっては生活の一部になっているんです。当たり前に自分の近くにある存在。

丈二 たぶん、みんなにとってちょうどいいバランスなんですよ。みんなが自分のものだと思っていないし、みんなでやるための場所だと思っている。4人でやるための場所として、今はどうすることが一番いいのかっていうことを考える。それぞれが変わっている部分もあると思うんです。それをみんなが受け入れる。自分が30代や40代の頃よりも、さらにやりやすくなっていますから(笑)。

小林 大事なことは、自分たちにとっての高みを目指していけるかどうか。その価値観自体を、自分たちで発見して作っていく。それが最近になったやっとわかったことですけど。

丈二 価値観を共有するんじゃなくて、サーディンヘッドとしての価値観をみんなで作ってきたんだと思います。それがみんなの共通理解としてあって、共通理解があることが無理することなくバンドを続けてこられた大きな要因のひとつなんだと思いますね。

― 25年を迎え、次の目標って持っていますか。明確な目標をたてないからこそ、バンドが続いてきたのかもしれないのだけど。

丈二 海外でやってみたいなって思いますね。今、海外でやったらどう受け入れられるのか。

川田 確かに久しぶりに海外には行きたいよね。

小林 今は、どこに行ってもものおじせずにやれる状態だと思います。2010年にアメリカツアーをしたんですけど、そのときは、正直言ってまだ早いなって思っていたんです。経験としてはいいのだけど、物見雄山で終わってしまうのではないかって。今はどこに行っても通用する音になっているんじゃないかって思う。

― サーディンヘッドのスタイルや音なら、やっぱりアメリカになると思う。

小林 ただ個人的には、トランプが大統領の間は、アメリカに行きたくない気持ちもありますが(笑)。

丈二 じゃあ、5年後の30周年記念とかかな(笑)。

Sardine Head

2000年バンド結成。東京を中心にライブ活動を開始。齋藤丈二(G)、川田義広(G)、小林武文(D)、湯浅崇(B)で2003年1stアルバム『parallel lines』をリリース。同年12月Club Asia にてイベント「I scream You scream We all scream Ice cream Man!!」主催。出演はSardine Headの他、日本のジャムバンドシーンの草分け的存在Big Frog、meltoneなど。2010年渡米。小林が行けずも荒川康伸に代役を依頼しアメリカ公演を実現。ミネアポリスCaboozeにてGod Johnson主催のイベント及びロサンゼルスThe Jointなどに出演。2012年、自主レーベルを離れ、マインズ・レコードより4thアルバム『RECONNECT』をリリースする。2015年、初のライブハウスでのフリー・ライブに向けてototoyからシングル「No Leaf」をハイレゾ音源でリリース。同年フリー・ライブ「SARDINE HEAD for FREE vol.1」を青山月見ル君想フで行う。2024年12月、12年ぶりとなる5thアルバム『strolling』をリリースした。

(取材時に湯浅崇は欠席)

Live Schedule

2月21日(金)@ 新宿御苑サウンド

3月12日(水)@ 下北沢ラウン

4月18日(金)@ 新宿御苑サウンド

CD販売(galabox)

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