Yusuke Chiba

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生きることをみんなで祝う場にて。【奈良龍馬】

ひとりひとりのエネルギーが結集することで、巨大な渦となった祭り。それは参加したひとりひとりの心に大切なものを残したに違いない。この12年に1度の祝祭は、どんなビジョンを持って開催に向かっていったのか。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 須古 恵 photo = Meg Sukoー 2024年の〈いのちの祭り〉にはどういうきっかけで参加することになったのですか。龍馬 実は〈いのちの祭り〉は今回が初参加でした。共同代表のひとりで音響監督でもある浅田(泰)さんから声がかかったんです。最初は軽く手伝ってくれないかっていう感じで。徐々にお役目を感じるようになって渦の中心に巻き込まれていきました。過去の〈いのちの祭り〉にはしがらみがない自分ならではのお役目があるって。野外パーティーやレイヴの源流にある〈いのちの祭り〉。10代からずっとパーティーをオーガナイズしてきて、恩返しみたいなことをしなきゃなと思っていたんです。ー 実行委員長を置かないということは、当初から決まっていたのですか。龍馬 日本各地の素晴らしい祭りやパーティのスーパーオーガナイザーたちの集まりだったので、誰かが実行委員長になってその人の権威なり思いで進めるよりは、全員の合意のもとに進めていったほうが、今の時代の感覚に近いんじゃないかって意見が多数で。自律分散型って言われるけど、そんな感じでやってみようかってなったんです。ー それで共同代表のひとりに奈良さんがなった?龍馬 僕が会場とのやりとりをしていたこともあって。東京ベースの浅田さんと僕だけでなく、地元長野で〈旅人の祭り〉をやってる(田村)至くんが入っていいバランスになったなって思いました。ただいざというときの対外的な責任を取るだけで代表は何の権限もないです(笑)。ー〈いのちの祭り〉開催にあたって、ルールのようなものは決めたのですか。龍馬 特になかったです。僕が一番意識したのは本番だけでなく祭りづくりを平和に進められる雰囲気づくり。そのためにミーティングの冒頭には毎回、 Zoomの画面上で手をつなげて輪になったイメージで、お互いを感じながら瞑想する時間を設けました。こんな主張の強い面子がひとつになるためには祈りしかないって思って(笑)。〈いのちの祭り〉は、年代も違うし、暮らしているベースも違う。都会の人もいれば、山や畑に近い人もいる。いろんなベースがあるなかで一緒にいることを選んだ。何かの結論を決めずに、統一見解を無理につくらないということにしていました。ー 8月に入ってチケットがソールドアウトになったり、〈いのちの祭り〉の開催が近づいていくにつれ、大きな渦が起こっているように感じていました。龍馬 スタッフも参加するひとりひとりも、とにかくみんなの熱量がすごかったなって。12年に1度の祭りにかけるそれぞれの思いが大きくなっていったんでしょうね。ー 台風が予想外の動きだったり、現地では大変なことも多かったのではないですか。龍馬 台風も、僕はそんなに心配していませんでした。初日の大渋滞とか駐車場の問題とか、個々の問題はいろいろあったけど、僕はすごく安心しながらやっていて。みんなの笑顔というかヴァイブスが良かったんです。初日に渋滞の最前線まで行って、解消するために僕も動いていました。お客さんはすごく待たされているのに、スタッフに温かい声をかけてくれていた。怒っている人は全然いない。参加者ひとりひとりが、より良い世界にしたいとか、いい祭りをつくりたいんだっていう思いで参加してくれているんだっていうことを、僕はそこで実感できた。そのときに、絶対に何があっても今回の〈いのちの祭り〉は大丈夫だって。

自分の音楽を深く追求する作業。【森俊之】

数々のアーティストと音楽作品を作り、ライブで共演してきた。40年以上にわたるキャリアのなかで、はじめて自分の作品(ソロアルバム)を発表すること。それは積み上げてきたものを並べ、そして削っていく作業。そこに自分発信の音楽が確かに残されていた。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー2024年12月に森さんの初のソロアルバムがリリースされました。作品を作ろうと思ったきっかけを教えてください。森 2020年にコロナ禍になって、ミュージシャンはみんな暇になったじゃないですか。それで時間ができたこともあって、「自分のことをやらないと」と思ったんですね。プロデュースをしたり、アレンジをしたり、誰かとバンドを組んだり。そろそろ本腰を入れて自分の名前で作品を出さなければなって。コロナ前から構想はしていたんですけど。ーどんなアルバムにしたい、どんな音楽にしたいとか、コンセプトを明快にしてからの制作だったのですか。森 2024年の12月で60歳になりました。バンドをやりはじめたのが中1だから、50年近くは音楽を続けているわけです。60歳を目前にして、本当に好きなもの、本当にやりたいと思っている音楽にもう一回ちゃんと向き合い直そうと思ったんです。そしてそれらを全部並べてみたんです。結局、20曲ぐらいできて。ーそもそも森さんのバックボーンにあるものはどんな音楽なのですか。森 3歳の頃からクラシックピアノを習っていたんですね。小学校に上がるくらいにエレクトーンという鍵盤楽器が世の中に出てきて、ピアノとともにエレクトーンも習うようになったんです。クラシックピアノとは違って、エレクトーンの教材は当時流行っていた洋楽でした。ビートルズやカーペンターズ…。ベルボトムを履いているようなヒッピーっぽいファッションをした先生だったのですけど、その先生が教材に載っている楽曲のレコードを買ってきて聞かせてくれて。その音楽がめちゃくちゃかっこいいなって思ったんです。それが自分のポピュラー音楽の原点。クラシックも原点にあるんですけど、どんどんそっちに傾いていったんです。そして中学ではバンドを組んで。ーそのバンドではキーボードを?森 いえ、ギターです。70年代の音楽ヒーローは、すべてギタリストと言っても過言ではないですから。ー70年代でバンドでギターを手にしたということは、当然のようにロックバンドだった?森 大阪なので、リハーサルスタジオとか楽器屋さんに行くと「ウイルソン・ピケットを聞かないとダメだろ」とか「ダニー・ハサウェイが一番」と言うようなおっさんやお兄ちゃんがいっぱいいたんですね。そういう人たちから、いろんな音楽を教えてもらって。それでロックのルーツのひとつでもある黒人音楽に傾倒していったんです。僕は1964年生まれなんですけど、70年代と80年代の音楽をリアルタイムに体験している世代です。とにかく片っ端からいろんな音楽を聞いた。当時聞いていたものって、しっかり血となり肉となっていますね。ー音楽の歴史から考えるといい時代だったと思います。森 今でもパッと弾くと、その頃のテイストが出てきちゃうんですね。いろんなジャンルがクロスオーバーしていった時代でしたし。混じったものがいっぱい出てきて、それがかっこいいなって思っていた世代です。それを自分のはじめての作品では素直に出していこうと。ーそして20曲が生まれたんですね。森 20曲を並べて「ちょっと違うかな」っていうものを引き算していったんですね。そして12曲が残って。

災害廃材を活かし、歴史もつないでいく【野原 健史(MASH-ROOM)】

熊本地震で多くの方からもらった支援を、次は自分で返していく。そんな思いを持って続けていた復興支援のなかで生まれてきた災害廃材の再利用。ゴミとして焼いてしまうのではなく、それぞれの木材が暮らしのなかで培ってきた時間もバトンタッチしていく。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真 = 宇宙大使☆スター photo = Uchutaishi☆Starー 災害材などを再利用して生まれたMASH-ROOMの家具。そんな家具を生み出すことになったきっかけを教えてください。野原 きっかけは、やっぱり熊本地震です。実家が産廃屋で、全壊・半壊の家の解体が熊本のいろんなところではじまって、廃材が集まってきたんですね。その廃材は火力発電所に持って行って処理されるというのが通常のルートなんだけど、廃材を使って家を建てればいいのにと思ったんです。特に古い家の木材はしっかりしているものが多いですから。ー 廃材でも家を建てられるものなのですか。野原 できないことはないですよ。使えるものを集めて家を建てれればいい。それでお国に対して打診したんです。「災害によって廃材と見られてしまった木材を、使えるものだけ抜いて仮設住宅に使ったり、再利用したらどうですか」って。県とか市とも話させてもらったんですけど、そのときはうまくいかずに。そして2020年の熊本豪雨で、被害が大きかった球磨川の人吉にボランティアに行ったんです。ー 熊本豪雨はコロナ禍のときでしたよね。県外への移動も制限されていた。野原 自分は熊本で暮らしているから、熊本県内の熊本豪雨の被災地に行ける。CANDLE JUNEくん、BRAHMANのTOSHI-LOWとかから連絡があって。自分たちは現地に行けないけれど幡ヶ谷再生大学(幡再)の九州メンバーでボランティアに行ける仲間がいるから指揮をとってくれないかと。それで有志が集まってきて。幡再のメンバーって、結局はTOSHI-LOWのファンじゃないですか。作業している最中に、ひとりが「野原さんですか」って話かけてきたんです。いろいろ話しているうちに「廃材を使って家を建てたいと思ったんだけど、ダメだったんだよね」みたいな話をして。そしたらそいつが「何だったら作れるんですか」って聞いてきたんです。「俺は木材の再利用について詳しくはないけれど、唯一言えるのは古民家で使われているような100年200年前の木材は炭化して硬くなっているから、家具を作ることは可能だと思う」っていう話をして。そいつがたまたま家具屋の社長だったんですよ。ー それがMASH-ROOMの家具を製作する家具屋さん?野原 そう。激甚災害になると、災害ゴミって国のものになるんですよね。環境省に行って、災害ゴミを災害材として捉え、こういうふうに自分たちは再利用していくということを説明して、やっと購入できることになって。結果、人吉市から70トンの災害材を買って。そいつとの出会いがあって動きはじめることができたんですね。ー 材料がなければ製品は作れないわけですから。野原 使えそうなもの、いいものだけを購入するってわけじゃないんですよね。熊本豪雨からそんなに時間を経ずに家具のプロジェクトがスタートできたんだけど、ちょうど同じ頃に、人吉でスケートパークを作りたいっていう話をMAN WITH A MISSIONのTOKYO TANAKAさんから持ちかけられたんです。それで購入した災害材で土台とツリーハウスを作ったりもしました。ー 災害材を使った家具ということと、売り上げを次の復興支援のためにプールしていくということも、MASH-ROOMの大きなポイントだと思います。野原 支援っていろんな形があるじゃないですか。デザイナーがデザインという形で支援してくれる。デザインしてもらった製品が売れて、その売り上げをプールしていく。災害が起きたときに、そのお金を支援のために使う。見える支援の形っていうものを続けていこうと思っています。ー 椅子やテーブルなどの家具は日常の暮らしに当たり前にあるものだから、それを再利用された素材を使ってっていうのは非常にいいなって思います。野原 災害がなんで起きているか。大きな災害になっているのか。要因として人災もあると思うんですね。人間が便利な生活をして、自然を壊して海も汚した。極地の氷が溶けて海水温も上がって、大量の水蒸気となって、どこかに大雨を降らして土砂災害を起こす。大雨は表面水として流れてしまうから、海にドカッと流れ込んでしまう。そして水蒸気となってまた大雨となる。アホな循環がはじまってしまっているわけじゃないですか。この狂ってしまった世界や自然に対して、「なんでこんなことが起こってしまったんだろう」って、生活のなかに災害材を使った家具がひとつあるだけで気づいてもらえるかなと思って。気づきがちょっとでもあれば、お父さんお母さんから子どもにも伝わっていくかなって。俺らはこの家具を100年200年リペアしていくとうたっています。親から子どもへ、そして孫へ。ずっと伝わっていくメッセージになればなって。ー ひとつの製品に確かな物語とメッセージがあるんですね。野原 これからは、何をするにせよ物語とメッセージが必要だと思います。ものを作って売るということに対しても。俺、結局はパンクスなんですよね。TOSHI-LOWたちと一緒。未来のために今の時代に中指を立てたいんですよ。ー 循環する支援の形が、MASH-ROOMにはあると思います。野原 俺は熊本地震のときに、 CANDLE JUNEくんをはじめ、いろんな人に助けてもらいました。それを返しているだけなんで。復興支援に行くのも、こうして家具として循環させるのも。

80年代から続く鼓童と佐渡(小木)の祭り。【洲崎 拓郎、菅野 敦司、上之山 博文|鼓童Production Notes】

太鼓の演奏などを中心とした芸能集団として、日本のみならず世界で公演を続けてきている鼓童。ベースとなる「鼓童村」を佐渡・小木に開村する際の村祭りとして、〈アース・セレブレーション〉がはじまった。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー まず御三方が鼓童に入ったきっかけから聞かせてください。菅野 82年に公演を見に行った際に、パンフレットに鼓童村構想が書かれていたんです。その文章を読んで、「ここしかない、自分はここだ」と。それで入れてくださいとお願いしたんです。ー 鼓童村構想のどんなところに魅かれたのですか。菅野 私はカウンターカルチャーみたいなものを探していたというか、そんな思いもあってカリフォルニアに留学していたんです。日本に帰ってきて、鼓童が日本におけるカウンターカルチャーだと感じたんですね。哲学を持って、佐渡という場所を自分たちの拠点として選んだ。ローカルという自分たちの足元を意識しながらも、インターナショナルな活動もしていく。そこにも魅力を感じて。前身の鬼太鼓座から鼓童になったばかりで、まだ何もない頃でしたから、ひとつひとつ新しいものを作っていくことを続けていたら、気がついたら現在に至っていたという。洲崎 私もパンフレットの文章なんです。たまたま見たNHKの番組で鼓童のことを知ったんですね。それが85年。当時は東京の高校生で、高校でブラスバンドでパーカッションをやっていたこともあって、太鼓に興味が生まれて、新宿での公演を見に行って。そのときのパンフレットに「鼓童村を作ろうとしている」とか「祭りをはじめようとしている」というようなことが書かれてありました。満員の電車通学にすごくくたびれていたし、田舎で暮らしたいという思いもありました。そして研修制度があることを知って、88年に研修生になりました。

自由は自分でつくるもの。【BEAUTIFUL PLANET(西林浩史)】

年代後半から新しいミレニアムに入った頃。日本にスケートボード・カルチャーを広めた大きな要因のひとつがシューズブランドの「IPATH(アイパス)」だった。そのカルチャーを再び魅力あるものに進化させるために「Beautiful Planet」が生まれた。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー2000年代初頭に、スケートボードシューズ・ブランドとして人気を集めたアイパス。日本でのアイパスの人気は、当時の輸入代理店だった西林さんの功績が大きかったと感じていました。シューズを売るだけではなく、カルチャーとして広めたというか。スケートボード・カルチャーとはどんな出会いだったのですか。西林 1992年にスノーボードなどを扱っている輸入会社を辞めた後、自分で輸入会社をはじめようとして、はじめてアメリカに行ったときに、街に溶け込む「カッコイイ」スケーターたちを見たときでした。ーアイパスとの関係はどのようにはじまったのですか。西林 99年4月。取り扱っていた、SUPERNAUT(スーパーナウト)というスケートボードブランドの日本ツアーで、アメリカのプロライダーであるマット・ロドリゲスとマット・ペイルズが来日した際に、彼らが履いていたのがアイパスシューズでした。この出会いがきっかけでアイパスを知り、99年秋の展示会でアイパス社のブースに行き、取引を申し込みました。話はすんなり進み、その場で日本の代理店として活動することが決まりました。ーツアーではどういうことをやっていたのですか。西林 基本的にはスケートボードショップに行って、お店の近くのスケートパークでデモンストレーションをして、ローカルのスケーター達との交流をしました。アイパスUSAライダーとのツアーは毎年行っていました。大都市だけでなく、北海道から沖縄まで、ほぼ全国をまわりました。ーそのツアーによって、アイパスが、スケートシューズ・ブランドとしてだけではなく、カルチャーとしても広がっていったのではないですか。西林 ツアーの影響は大きかったと思います。やはり、すべては出会ってからはじまるので。でも一番の理由は、カルチャーとして広がれる可能性がアイパスにあったということと、僕がアイパスをカルチャーの方向に進めて、それを「良い社会創り」へつなげたいという意志があったからだと思います。今になって振り返ると、99年って大きな変わり目の年だったんですね。ーそれはどういうところがですか。西林 アイパスが人気になった理由のひとつが、ヘンプ素材をスケートシューズに使用したことです。90年代前半に第1次ヘンプブームがマナスタッシュなどの「ヘンプアウトドア」を軸にはじまり、ヘンプ素材が注目されるようになりました。そして99年に誕生したアイパスがヘンプ素材をスケートボーダーたちに広め、第2次ヘンプブーム「ヘンプストリート」が広まって行きました。同じ年代に誕生した、サトリ、リビティもこの「ヘンプストリート」を創り出したブランドです。またスケートボードシューズ自体も、アイパスがきっかけで、ハイテク人気からローテクに変わりました。

半世紀も続けられた感謝を伝える時間。【春一番(福岡嵐)】

1971年にはじまった〈春一番〉。中断はあったものの、半世紀以上にわたって続いてきた関西のみならず日本を代表する野外コンサートが今年5月で幕を降ろす。昭和、平成、令和。〈春一番〉の主催であり支柱だった福岡風太の息子・福岡嵐が、その決断をくだした。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー嵐さんの〈春一番〉の最初の思い出はいつになるのですか。嵐 1995年に復活したときですね。そのときは中学1年で、母に連れられていったのが最初の思い出です。〈春一番〉は71年にはじまって79年にいったん終わっています。僕は82年生まれだから、70年代の〈春一番〉は生まれていなかったですから。70年代を知らない世代なんです。ー父親であり〈春一番〉の主催を担っていた福岡風太さんが昨年6月にお亡くなりになりました。風太さんが続けてきた〈春一番〉のこと、そして風太さんのこと。息子さんである嵐さんはどう思っていたのか。今回の取材はそれをお聞きしたいと思ってのものです。嵐 2025年で〈春一番〉を終わりにします。「BE-IN LOVE-ROCK」とサブタイトルに付けているんですけど、これは福岡風太が、自分で手がけたはじめての野外コンサートにつけたタイトルなんです。50年以上の前のことなので、出演者が誰だったのかとかの記録があまり残っていないんですけど。ーどういうきっかけで風太さんはその野外コンサートをやろうと思ったのですか。嵐 ビートルズの映画上映と抱き合わせた野外コンサートだったそうです。この「BE-IN LOVE-ROCK」のほかに「感電祭」と「ロック合同葬儀」っていう3つの野外コンサートを70年にやって。その3つが翌71年に初開催される〈春一番〉の基盤になったというか。70年頃は、ひたすら野外コンサートやライブを作っていたみたいです。ーなぜロックコンサートだったのでしょうか。嵐 風太は69年にアメリカで開催された〈ウッドストック〉に憧れてたんですね。「60年代後半からの安保闘争で、自分は体制に向かって火炎瓶を投げている側だったけれど、これで何かが解決できるわけではない。平和を求めているのに、みんながケンカしちゃっている。それだったら音楽で平和を表現したい。仲間と一緒にコンサートを作って、〈ウッドストック〉のような平和の祭りをやりたい」。規模がどうのこうのじゃなくて、仲間と遊びたかった。自由でいたかったんだと思います。70年って、風太は22歳か23歳なんですよね。ーかなり若いですし、その年齢で野外イベントを立ち上げるってかなりの挑戦だったはず。嵐 みなさん若かったんですよね。とにかく仲間と遊びたかった。音楽で遊ぶ場が欲しかった。そのなかで「愛と平和」をどうやって表現しようかとずっと考えていたと思うんです。そのひとつが運営母体を会社にしないでフリーでい続けること。守るものをできる限り少なくすることが、自由でい続けられることだと。ーそして95年に復活して、コロナ禍での開催見送りはあったものの、今年まで継続しています。大阪のゴールデンウィークの風物詩と言ってもいいかもしれない。嵐 やっぱり続けるってすごいエライことですよね。お客さんが来てくれたし、〈春一番〉っていうコンサートを楽しみに来てくださる方がたくさんいましたから。ただ〈春一番〉は、知る人ぞ知るっていう存在ですよね。音楽が好きな人だったら、〈フジロック〉や〈サマソニ〉は知っているわけじゃないですか。〈春一番〉は決して有名ではないですから。ー95年に復活したのは、どんな理由からだったと思いますか。嵐 ちょうど30年前なんですよね。風太は94年に胃癌の手術をして、胃の4分の3を取っているんです。そして5月の開催を決めた後に阪神淡路大震災が起こった。仲間で集う場をもう一度作って、それを続けたいと思ったんじゃないですかね。ー嵐さんは95年以降、ずっと〈春一番〉に参加していた?嵐 95年と96年だけ。生まれは名古屋なんですけど、小学校から東京でしたから。中学高校とずっとサッカー部だったんです。ゴールデンウィークって大切な試合があるんですよ。バンドもやってましたから、部活とバンドが自分の世界でした。僕には僕の好きな音楽もあったし。ー確かに〈春一番〉は中学生が好むラインナップではないでしょうから。嵐 音楽って自分で選んでいくものじゃないですか。当時はミッシェル・ガン・エレファントなんかが好きでしたから。もちろん〈春一番〉が横にあるから音楽の幅は広がっていきましたけど。

声で聞く詩と文字で読む詩。【ナナオサカキを語る Dialogue 2 - 向坂くじら × ikoma(胎動LABEL)】

ナナオサカキの詩を読む。ナナオサカキの詩を聞く。自分の周りから宇宙へ。そしてまた自分のもとへ。 そんな旅に誘ってくれる詩への畏敬と拒否。ヒッピー的な生き方に疑いを持ってしまう世代の社会と自分の関係性。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 須古 恵 photo = Meg Sukoー まずふたりの出会いというか、関係を聞かせてください。ikoma 胎動LABELというレーベルを主宰していて、ポエトリー・リーディングなどのイベントを運営しています。彼女が大学生時代に、詩人として活動している場でたまたま出会って。自分のイベントに出てもらって。それから7〜8年くらいになるかな。くじら 自分の表現のはじまりは、詩の朗読でした。ひとりでの朗読とは別に、ギタリストと一緒にアンチトレンチというユニットを組んでいて、胎動LABELのイベントにも出演させてもらっていました。ikoma くじらは30代になった?くじら 今年でちょうど30歳になりました。ikoma 俺は40代になって、ちょうど10歳くらいの違いがある。アレン・ギンズバーグやゲイリー・スナイダーといったビートニクから直撃された日本の詩人は俺よりも年上の世代だけど、くじらはその世代の人たちとも活動を一緒にすることも多いよね。くじら 選んでいるみたいな気持ちは全然ないんですけど、仲良くなったり、かっこいいなと思う人は、どこかでその系譜に関する人だったりというのが多いと思います。ikoma ビートニクの詩人たちの登場によって、ポエトリー・リーディングは行われるようになった。日本で若い世代でポエトリー・リーディングをやっている人もいるけど、ビートニクや、今日の主題であるナナオサカキさんや長沢哲夫さんといったヒッピー世代の人たちの詩に、触れていない人も多いように思っていて。くじら 少なくとも、私は世代的には全然違いますね。アレン・ギンズバーグは、自分がポエトリー・リーディングをはじめた後になって知って。古本で買って、読んでみたらすごくかっこよかった。ikoma 大学時代に触れてはいたんだね。くじら 触れたっていう程度。アレン・ギンズバーグの詩はすごく好きで、元気がないときに、家でひとりで「吠える」を朗読すると、すごく元気になる(笑)。ikoma ギリギリ、くじらがビートの流れの一番下につながっている気がしなくもない。本人が「私はビート詩から来てます」って口にすることはないだろうけど。くじら 劇団どくんごという劇団がありまして、そのどくんごの10年来のファンなんです。詩を書きはじめる前からどくんごを見ていて。自分が身体を使ってパフォーマンスする、声を使ってパフォーマンスする、自分の書いた言葉を持って人前に立つっていうことの前提に何があったのかって考えると、どくんごなんですよ。ikoma そうなんだ。くじら トラックにテントを積み込んで、全国各地に移動して、テントを張って、劇をする。劇の旅。助成金をもらうわけでもなく、全国に支援者がいる。何かをするときに、どくんご的じゃなきゃいけない、みたいな思いがちょっとあるんです。国とか、大きなものに頼らずに自分たちの表現の場を作っていくとか、社会のなかでの暮らしの方法を作っていくとか。表現することによっていろんな人と出会って、旅をしていく。友達同士の関係でも、利益だけではないつながりを作っていくことに対しての尊敬する心など、どくんごから培われていることが多いんです。ikoma ある種のカウンター的な資質がそこにあるという。くじらにとって、詩を書くこと、詩を朗読することって、実はカウンター・カルチャー的な部分もある?くじら 普通に、一生懸命生きていこうとすると、必然カウンターになってしまう。私が世界を押し返しているのではなく、まず世界が私を押し返すことからはじまっていて、その押し返された先で生きていくことがカウンターなら、カウンターなんでしょうね。ー ふたりがナナオサカキの詩に出会ったのは?くじら 埼玉県の桶川でナーガ(長沢哲夫)さんが出る詩のイベントがあって。そのときに、桶川に住んでいる詩人の新納新之助さんが、ナナオさんの詩をカバーしていたんです。ikoma きっかけは、いとうせいこう is the poetsのライブでせいこうさんがナナオさんの詩を引用していた。「このかっこいい詩はなんなんだ」と思って。いつまでも通じる詩というか。誰がカバーしても、その言葉が持っている魔力というかエネルギーみたいなものが伝わってくる。くじら ナナオさんの「ラブレター」をナーガさんのカバーで聞いたときは、人間という存在があって、それが社会的でも物理的でもあるっていうことを、確か谷川俊太郎さんが書いていたんですけど、それを実感して。ナナオさんの詩は、社会的な存在としての自分をいきなり飛ばして、宇宙にぶつけてしまう感じ。宇宙的な存在としての自分っていうところに、