自由は自分でつくるもの。【BEAUTIFUL PLANET(西林浩史)】年代後半から新しいミレニアムに入った頃。日本にスケートボード・カルチャーを広めた大きな要因のひとつがシューズブランドの「IPATH(アイパス)」だった。そのカルチャーを再び魅力あるものに進化させるために「Beautiful Planet」が生まれた。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー2000年代初頭に、スケートボードシューズ・ブランドとして人気を集めたアイパス。日本でのアイパスの人気は、当時の輸入代理店だった西林さんの功績が大きかったと感じていました。シューズを売るだけではなく、カルチャーとして広めたというか。スケートボード・カルチャーとはどんな出会いだったのですか。西林 1992年にスノーボードなどを扱っている輸入会社を辞めた後、自分で輸入会社をはじめようとして、はじめてアメリカに行ったときに、街に溶け込む「カッコイイ」スケーターたちを見たときでした。ーアイパスとの関係はどのようにはじまったのですか。西林 99年4月。取り扱っていた、SUPERNAUT(スーパーナウト)というスケートボードブランドの日本ツアーで、アメリカのプロライダーであるマット・ロドリゲスとマット・ペイルズが来日した際に、彼らが履いていたのがアイパスシューズでした。この出会いがきっかけでアイパスを知り、99年秋の展示会でアイパス社のブースに行き、取引を申し込みました。話はすんなり進み、その場で日本の代理店として活動することが決まりました。ーツアーではどういうことをやっていたのですか。西林 基本的にはスケートボードショップに行って、お店の近くのスケートパークでデモンストレーションをして、ローカルのスケーター達との交流をしました。アイパスUSAライダーとのツアーは毎年行っていました。大都市だけでなく、北海道から沖縄まで、ほぼ全国をまわりました。ーそのツアーによって、アイパスが、スケートシューズ・ブランドとしてだけではなく、カルチャーとしても広がっていったのではないですか。西林 ツアーの影響は大きかったと思います。やはり、すべては出会ってからはじまるので。でも一番の理由は、カルチャーとして広がれる可能性がアイパスにあったということと、僕がアイパスをカルチャーの方向に進めて、それを「良い社会創り」へつなげたいという意志があったからだと思います。今になって振り返ると、99年って大きな変わり目の年だったんですね。ーそれはどういうところがですか。西林 アイパスが人気になった理由のひとつが、ヘンプ素材をスケートシューズに使用したことです。90年代前半に第1次ヘンプブームがマナスタッシュなどの「ヘンプアウトドア」を軸にはじまり、ヘンプ素材が注目されるようになりました。そして99年に誕生したアイパスがヘンプ素材をスケートボーダーたちに広め、第2次ヘンプブーム「ヘンプストリート」が広まって行きました。同じ年代に誕生した、サトリ、リビティもこの「ヘンプストリート」を創り出したブランドです。またスケートボードシューズ自体も、アイパスがきっかけで、ハイテク人気からローテクに変わりました。2025.05.12 01:17
半世紀も続けられた感謝を伝える時間。【春一番(福岡嵐)】1971年にはじまった〈春一番〉。中断はあったものの、半世紀以上にわたって続いてきた関西のみならず日本を代表する野外コンサートが今年5月で幕を降ろす。昭和、平成、令和。〈春一番〉の主催であり支柱だった福岡風太の息子・福岡嵐が、その決断をくだした。文・写真 = 菊地 崇 text・photo = Takashi Kikuchiー嵐さんの〈春一番〉の最初の思い出はいつになるのですか。嵐 1995年に復活したときですね。そのときは中学1年で、母に連れられていったのが最初の思い出です。〈春一番〉は71年にはじまって79年にいったん終わっています。僕は82年生まれだから、70年代の〈春一番〉は生まれていなかったですから。70年代を知らない世代なんです。ー父親であり〈春一番〉の主催を担っていた福岡風太さんが昨年6月にお亡くなりになりました。風太さんが続けてきた〈春一番〉のこと、そして風太さんのこと。息子さんである嵐さんはどう思っていたのか。今回の取材はそれをお聞きしたいと思ってのものです。嵐 2025年で〈春一番〉を終わりにします。「BE-IN LOVE-ROCK」とサブタイトルに付けているんですけど、これは福岡風太が、自分で手がけたはじめての野外コンサートにつけたタイトルなんです。50年以上の前のことなので、出演者が誰だったのかとかの記録があまり残っていないんですけど。ーどういうきっかけで風太さんはその野外コンサートをやろうと思ったのですか。嵐 ビートルズの映画上映と抱き合わせた野外コンサートだったそうです。この「BE-IN LOVE-ROCK」のほかに「感電祭」と「ロック合同葬儀」っていう3つの野外コンサートを70年にやって。その3つが翌71年に初開催される〈春一番〉の基盤になったというか。70年頃は、ひたすら野外コンサートやライブを作っていたみたいです。ーなぜロックコンサートだったのでしょうか。嵐 風太は69年にアメリカで開催された〈ウッドストック〉に憧れてたんですね。「60年代後半からの安保闘争で、自分は体制に向かって火炎瓶を投げている側だったけれど、これで何かが解決できるわけではない。平和を求めているのに、みんながケンカしちゃっている。それだったら音楽で平和を表現したい。仲間と一緒にコンサートを作って、〈ウッドストック〉のような平和の祭りをやりたい」。規模がどうのこうのじゃなくて、仲間と遊びたかった。自由でいたかったんだと思います。70年って、風太は22歳か23歳なんですよね。ーかなり若いですし、その年齢で野外イベントを立ち上げるってかなりの挑戦だったはず。嵐 みなさん若かったんですよね。とにかく仲間と遊びたかった。音楽で遊ぶ場が欲しかった。そのなかで「愛と平和」をどうやって表現しようかとずっと考えていたと思うんです。そのひとつが運営母体を会社にしないでフリーでい続けること。守るものをできる限り少なくすることが、自由でい続けられることだと。ーそして95年に復活して、コロナ禍での開催見送りはあったものの、今年まで継続しています。大阪のゴールデンウィークの風物詩と言ってもいいかもしれない。嵐 やっぱり続けるってすごいエライことですよね。お客さんが来てくれたし、〈春一番〉っていうコンサートを楽しみに来てくださる方がたくさんいましたから。ただ〈春一番〉は、知る人ぞ知るっていう存在ですよね。音楽が好きな人だったら、〈フジロック〉や〈サマソニ〉は知っているわけじゃないですか。〈春一番〉は決して有名ではないですから。ー95年に復活したのは、どんな理由からだったと思いますか。嵐 ちょうど30年前なんですよね。風太は94年に胃癌の手術をして、胃の4分の3を取っているんです。そして5月の開催を決めた後に阪神淡路大震災が起こった。仲間で集う場をもう一度作って、それを続けたいと思ったんじゃないですかね。ー嵐さんは95年以降、ずっと〈春一番〉に参加していた?嵐 95年と96年だけ。生まれは名古屋なんですけど、小学校から東京でしたから。中学高校とずっとサッカー部だったんです。ゴールデンウィークって大切な試合があるんですよ。バンドもやってましたから、部活とバンドが自分の世界でした。僕には僕の好きな音楽もあったし。ー確かに〈春一番〉は中学生が好むラインナップではないでしょうから。嵐 音楽って自分で選んでいくものじゃないですか。当時はミッシェル・ガン・エレファントなんかが好きでしたから。もちろん〈春一番〉が横にあるから音楽の幅は広がっていきましたけど。2025.04.21 04:34
新章へ。TAKE a NEW STEP新章へ。TAKE a NEW STEP長きに培ってきたキャリアを見放し、次に向かっていく。それは過去を捨てるのではなく、まっさらな感覚で今の自分と向き合うこと。年月を重ね、いろんな出会いがあり、様々なことを体験してきたからこそ踏み出したくなる新しい扉。自分を見つめた先にあるものは何だったのだろうか。その一歩を踏み出すきっかけはなんだったのだろうか。2025.04.09 05:00
声で聞く詩と文字で読む詩。【ナナオサカキを語る Dialogue 2 - 向坂くじら × ikoma(胎動LABEL)】ナナオサカキの詩を読む。ナナオサカキの詩を聞く。自分の周りから宇宙へ。そしてまた自分のもとへ。 そんな旅に誘ってくれる詩への畏敬と拒否。ヒッピー的な生き方に疑いを持ってしまう世代の社会と自分の関係性。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 須古 恵 photo = Meg Sukoー まずふたりの出会いというか、関係を聞かせてください。ikoma 胎動LABELというレーベルを主宰していて、ポエトリー・リーディングなどのイベントを運営しています。彼女が大学生時代に、詩人として活動している場でたまたま出会って。自分のイベントに出てもらって。それから7〜8年くらいになるかな。くじら 自分の表現のはじまりは、詩の朗読でした。ひとりでの朗読とは別に、ギタリストと一緒にアンチトレンチというユニットを組んでいて、胎動LABELのイベントにも出演させてもらっていました。ikoma くじらは30代になった?くじら 今年でちょうど30歳になりました。ikoma 俺は40代になって、ちょうど10歳くらいの違いがある。アレン・ギンズバーグやゲイリー・スナイダーといったビートニクから直撃された日本の詩人は俺よりも年上の世代だけど、くじらはその世代の人たちとも活動を一緒にすることも多いよね。くじら 選んでいるみたいな気持ちは全然ないんですけど、仲良くなったり、かっこいいなと思う人は、どこかでその系譜に関する人だったりというのが多いと思います。ikoma ビートニクの詩人たちの登場によって、ポエトリー・リーディングは行われるようになった。日本で若い世代でポエトリー・リーディングをやっている人もいるけど、ビートニクや、今日の主題であるナナオサカキさんや長沢哲夫さんといったヒッピー世代の人たちの詩に、触れていない人も多いように思っていて。くじら 少なくとも、私は世代的には全然違いますね。アレン・ギンズバーグは、自分がポエトリー・リーディングをはじめた後になって知って。古本で買って、読んでみたらすごくかっこよかった。ikoma 大学時代に触れてはいたんだね。くじら 触れたっていう程度。アレン・ギンズバーグの詩はすごく好きで、元気がないときに、家でひとりで「吠える」を朗読すると、すごく元気になる(笑)。ikoma ギリギリ、くじらがビートの流れの一番下につながっている気がしなくもない。本人が「私はビート詩から来てます」って口にすることはないだろうけど。くじら 劇団どくんごという劇団がありまして、そのどくんごの10年来のファンなんです。詩を書きはじめる前からどくんごを見ていて。自分が身体を使ってパフォーマンスする、声を使ってパフォーマンスする、自分の書いた言葉を持って人前に立つっていうことの前提に何があったのかって考えると、どくんごなんですよ。ikoma そうなんだ。くじら トラックにテントを積み込んで、全国各地に移動して、テントを張って、劇をする。劇の旅。助成金をもらうわけでもなく、全国に支援者がいる。何かをするときに、どくんご的じゃなきゃいけない、みたいな思いがちょっとあるんです。国とか、大きなものに頼らずに自分たちの表現の場を作っていくとか、社会のなかでの暮らしの方法を作っていくとか。表現することによっていろんな人と出会って、旅をしていく。友達同士の関係でも、利益だけではないつながりを作っていくことに対しての尊敬する心など、どくんごから培われていることが多いんです。ikoma ある種のカウンター的な資質がそこにあるという。くじらにとって、詩を書くこと、詩を朗読することって、実はカウンター・カルチャー的な部分もある?くじら 普通に、一生懸命生きていこうとすると、必然カウンターになってしまう。私が世界を押し返しているのではなく、まず世界が私を押し返すことからはじまっていて、その押し返された先で生きていくことがカウンターなら、カウンターなんでしょうね。ー ふたりがナナオサカキの詩に出会ったのは?くじら 埼玉県の桶川でナーガ(長沢哲夫)さんが出る詩のイベントがあって。そのときに、桶川に住んでいる詩人の新納新之助さんが、ナナオさんの詩をカバーしていたんです。ikoma きっかけは、いとうせいこう is the poetsのライブでせいこうさんがナナオさんの詩を引用していた。「このかっこいい詩はなんなんだ」と思って。いつまでも通じる詩というか。誰がカバーしても、その言葉が持っている魔力というかエネルギーみたいなものが伝わってくる。くじら ナナオさんの「ラブレター」をナーガさんのカバーで聞いたときは、人間という存在があって、それが社会的でも物理的でもあるっていうことを、確か谷川俊太郎さんが書いていたんですけど、それを実感して。ナナオさんの詩は、社会的な存在としての自分をいきなり飛ばして、宇宙にぶつけてしまう感じ。宇宙的な存在としての自分っていうところに、2024.12.02 01:02
自由な詩が生まれる起因。【ナナオサカキを語る Dialogue 1 - 長沢哲夫(ナーガ) × いとうせいこう】10代の頃に新宿・風月堂でナナオサカキと出会い、 一緒に旅に出てもいた長沢哲夫。ナナオサカキの詩を、今も自身のライブで音源にのせて読むいとうせいこう。旅と詩とナナオサカキを巡るふたりの対談。文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 北村勇祐 photo = Yusuke Kitamuraいとう ナナオサカキさんのことをお話していただく前に、まずはナーガ(長沢哲夫)さんのことをお聞きします。どちらの生まれですか。長沢 東京の新宿区です。早稲田大の近く。戦争中は岩手に疎開していましたが。いとう 岩手に疎開なさっていて、終戦後に東京に戻ってきた?長沢 小学校に入るので帰ってきたんです。6歳か7歳か。いとう どんな子どもだったのですか。本をよく読むとか、いたずら好きとか。長沢 遊びまくる子でしたね。いとう そして大学に行った?長沢 いや、大学には行っていない。いとう じゃあ、何をなさっていたのですか。働いていらしたのですか。それともフラフラしていた?長沢 結局、風月堂にはよく行ってましたね。いとう 新宿とお聞きして、風月堂が出てくると思ったんです。当時は風月堂に行くような流れってあったのですか。長沢 そういうものじゃないんだけど。中学で知り合った友だちのおじさんが、よく風月堂に行っていた。たまたまなんかね、行ってみないかって誘われて。彼と一緒に行ったのがはじまりで。いとう 中学生で風月堂デビューですか。すごいですね。ハイミナールを飲んでグズグズになっていた人もいたという話を聞きますけど。長沢 ぼくが行ってた頃は、そういうのは全然なくて。とにかくクラシックを聴きたい人が行くお店。ぼくは読書しながら音楽を聴いていましたね。いとう その本は買ってきたものだったのですか。それとも借りてきたもの?長沢 借りてくることもあったね。国会図書館に行ったり、インド大使館の図書館に行ったり。高校を中退してすぐの頃。いとう インド大使館の図書館で借りたものはサンスクリット語?長沢 いやいや英語の本。なんとか辞書をひきながらね。サンスクリット語の本はなかったね。いとう すごい。詩もあったのですか。長沢 読んでいたインドの本は、詩に含まれるんだろうね。長い詩。そもそも漢詩が好きでね。風月堂で読んでいたのは、まず漢詩だったね。それからインドの詩にはまり込んで。その後、ランボーの詩に出会いました。いとう やっぱり詩なんですね。詩の一番の入口はどこだったんですか。中学生くらいに「詩がおもしろい」ってなったわけじゃないですか。しかも和歌ではなく漢詩からという。長沢 ちょっと読んだら気に入っちゃった。いとう 友だちは理解してくれたんですか。長沢 同世代の友だちはいなかったから。いとう それで風月堂で仲間というか友だちを見つけたってことですよね。ナナオさんとか。長沢 ぼくみたいに、毎日のように来る人たちがけっこういたんだよね。話すわけでもないのだけど、いつの間にか友だちになっていた。ナナオの出会いもそんな感じだったよ。ナナオとナナオの友人の彫刻家が個展をやっていて、それに来ないかって声をかけられたのが、ナナオと話すようになったはじまり。個展では大きな字でガーッと書かれた詩が掲げられていた。いとう 詩と彫刻って、先端のミクスドメディアですね。その頃はナーガさんは10代?長沢 17歳か18歳。いとう すごい早熟ですね。ナナオさんは何歳くらいだったのですか。長沢 ずっと上ですよ。30歳以上だったね。いとう ナナオさんは詩を書く、ナーガさんは詩を読む。当時の風月堂周りには、他に詩を書いたり、読んだりする人がいたのですか。長沢 いたんだろうけど、ぼくは出会わなかったね。。会ったのはポン(山田塊也)とか山尾三省とか。いとう 60年代の新宿文化圏と言えるものがそこにあったのですね。そして日本のヒッピーが生まれていった。長沢 ぼくらはヒッピーという名前は使っていなくて。けっこうな人数の知り合いができて、ときどき集まっていろんなことをやっていたから、ナナオが「自分たちのことを何と呼ぼうかね」ということを提案してきた。そしてナナオが言い出したのが「バム・アカデミー」。乞食学会。それでいいだろうっていうことになって。いとう ヒッピーとは違う?長沢 ヒッピーのことを語るのならゲイリー・スナイダーのことを出さなきゃいけない。ゲイリーはそもそもがビート。風月堂で知り合ったオーストラリア人が、京都でインド帰りのゲイリーと一緒になったらしいんですね。ナナオのところに連絡が来て、京都にこういうおもしろいアメリカ人がいるから会いに行けと。いとう 有名な一幕ですよね。長沢 ナナオと僕のふたりで行って。ちょうどアレン・ギンズバーグもインドから帰って来たばかりで、ゲイリーのところにいた。いとう ビートの二大巨頭に会っちゃったわけですね。長沢 そう。それでゲイリーがアメリアに戻ってから、ビート関係のもの、本とか雑誌とかをいろいろ送ってきてくれた。いとう その後もゲイリー・スナイダーとかアレン・ギンズバーグとか、ビートの人たちに会う機会はあったのですか。長沢 ゲイリーとは会ったけど、アレンはそのときだけ。ナナオはアメリカでアレンと会っているけどね。ゲイリーがナナオをアメリカに呼んだから。いとう ナナオさんをアメリカまで呼ぶ。ナナオさんの、どこに魅力というか、力を感じたんだと思いますか。長沢 どうだろう。ナナオが愛される自由人だったということじゃないかな。2024.11.25 01:00
民謡という手つかずの源泉。【田中克海 民謡クルセイダーズ】多くの人が耳にしたことがあり、口ずさめる「民謡」。多くの人の心に宿っている歌を、ラテン・リズムに融合させて21世紀に再生させる。唯一無二のシン民謡は、日本だけではなく世界に伝播されている。文 = 宙野さかな text = Sakana Sorano写真(ポートレート) = 須古 恵 photo(portrait) = Meg Sukoー 田中さんは、いつから福生の米軍ハウスにいるのですか。 20年くらいになります。はっぴいえんどとか聴いていましたが、音楽と福生がリンクしていなくて。当時は雰囲気がいい街って聞いて、遊びに来た。今と違って、もっと米軍ハウスが多かったんですよね。知人が米軍ハウスに住んでいて、入ってみたら「ここ、ヤバい」ってなって。「ちょうど、斜め向かいの家が、明日空くみたいだけど」と教えてくれて。で、次の日に見にいったら、借りていたお兄さんが不動産屋さんに鍵を返すところだったんですよ。その場で「すいません、僕、ここを借りたいんです」って仮押さえして。ー それが、今もいる「バナナハウス」? そうです。ー 20年前に来た頃も音楽はやっていたのですか。 音楽は趣味みたいな感じでしたね。リズム&ブルースとか黒人音楽が好きだったんで、仲間とパーティーバンドみたいなものを組んで。高円寺とか中央線界隈のDJイベントに呼んでもらったりしてましたね。ー 民謡クルセイダーズはどんなきっかけで生まれたのですか。 福生に引っ越してから、横のつながりがだんだんできていったんですね。老舗ライブハウスのチキンシャックとかバンド文化もあるし、イベントや週末のパーティーが盛んでライブしたり、デザインの仕事をもらったり。そんななかで東日本大震災があって、考え方が変化していきました。それまでは自分自身とだけ向かい合っていたことが、福生でコミュニティとか横のつながりが増えてきて生活と活動の拠点ができたことで、クリエイティブにしろ何にしろ、すべてが紐づいて地域に根ざしたことができないかって思いはじめたんですよ。よりそこの土地に根ざした、住んでいる場所に自分ができることで貢献できるとか、地域と絡んだ活動をしたいなってなんとなく思って。そんなときにフレディ(塚本)さんの存在を思い出したんです。ー 民謡歌手としてのフレディさんを思い浮かべた? フレディさんとの出会いは、民謡歌手ではなくジャズやソウルのボーカルとしてもライブをしていて、それを見て「すごいうまい人だ」って思っていたんです。飲み屋とかイベントでたまに顔を合わせていて。ルーツ音楽が好きで、いろんな国の古い音楽を「いいな、いいな」ってあさっていたにも関わらず、自分の国の音楽には一切アプローチさえしていないっていうことに疑問を抱いて。なんでだろうって思いつつ、民謡をちょっと聞いてみようかってなって。そしたら美空ひばりさんや江利チエミさんが民謡アルバムを出しているのを知って。「民謡ってダサい音楽として終わってる音楽」って勝手に思っていたけど、もっとヒップなものだったんじゃないかって思いはじめて。そういう切り口だったら、自分たちのルーツミュージックをできるかもしれないって思ったんですよ。そしてフレディさんに連絡を取って、民謡クルセイダーズの原型みたいなものができあがっていったんです。2024.11.20 01:00
ナナオサカキという自由人。近代文明を否定し自然と共存するライフスタイルを創出した「部族」。日本のヒッピーの元祖と呼ばれる「部族」のリーダーだったナナオサカキ。ビートの代表的詩人ゲーリー・スナイダーはナナオのことを「日本から現れた最初の真にコスモポリタンな詩人のひとり」と称している。ゲイリーに呼ばれたアメリカで、ナナオは初の詩集を60年代中盤に出版した。それから遅れること十数年。日本で、日本語のナナオの詩集が出版されたのは80年代に入ってからのことだった。ナナオが生まれたのは1923年1月1日。旅を続け、詩を詠んだ。生きていれば2024年で101歳になる。ナナオとはどんな人物だったのか。詩に託されているものとは何か。2024.11.19 08:00
地球に刺さる男の新たな航海。【sasaru kozee】世界を旅する。その旅を記憶と記録に残るものとするために自らがプロデュースしたのが「SASARU」。Google Mapのピンをイメージして自分が大地に刺さる。その旅の様子はSNSで展開され、世界中に拡散されていった。写真(ポートレート) = 須古 恵 photo(portrait) = Meg Suko文 = 菊地 崇 text = Takashi Kikuchiー 「地球に刺さる男」について聞かせてください。K ブレイクダンスをやっていたので、ブレイクダンスを通してヒップホップカルチャーに魅せられていったんですね。何も調べずにイメージだけで、「ブレイクダンスならニューヨークだろ」って思って。そして高校を卒業した年にニューヨークに行ったんです。ちょうど9・11のテロがあった年でした。ー 9・11はニューヨークで?K 9・11の後です。あの事件が起こったことで、エアチケットがめっちゃ安くなって(笑)。この金額だったら行けるって思って行ったんです。ー はじめて行ったニューヨークはどんな印象でしたか。K ブレイクダンスを毎日したかったんですよね。練習場所を探して。英語もまったく喋られなかったんですけど、ダンスのいいところは、動きで「この間も来ていたアイツだ」って覚えてもらって。ダンスから会話がはじまっていったんですね。僕は東京・原宿の出身で、日本のなかではグローバルな人たちと会える機会が多い地域で育ったんだけど、ニューヨークはその比じゃなくて。当時の僕が知らなかった国の人とも知り合う。「アフリカの○○っていう国の出身」って言われても、その国がわからない。けれどそいつには興味があるから、その国のことも興味を持つようになって。音楽と一緒ですよ。その国の音楽が好きになって、その国も好きになる。そしてせっかく仲良くなったヤツの国にいつか行ってみたいなって漠然と思うようになって。ー 確かに人から興味がはじまるっていうことも多いように思います。K ブレイクダンスの世界大会に出ることがダンスでの最終目標だったんですね。正確に言えば、その世界大会は1日目が予選で2日目が本戦で、その本戦に出ること。本戦に出てダンスの夢を叶えることができた。夢を達成して、次に何をやろうかなと思っていたときに、テレビの仕事をやらないかって声をかけてもらったんです。いわゆるADからのスタート。早い段階でディレクターの仕事をさせてもらって。旅番組を担当することになって、日本全国に行くことができたんです。いろんな場所に行ったら、日本もめっちゃおもしろいじゃんって思って。ー テレビの旅番組から、今度は自分が旅に行くことになった?K 「地球に刺さる男」の前に、輸入の仕事のオファーがあってオーストラリアに行ったんですね。ワーホリ(ワーキングホリデー)のビザを取って。行ったのが2011年の1月末。そしておよそ1ヶ月後に3・11があって、仕事がなくなってしまって。でもビザがあったから、そのままいたんです。オーストラリアにはダンスチームの仲間もいたし。あるとき、ダンサー仲間たちとポートスティーブンスって真っ白な砂が綺麗な鳥取砂丘みたいなエリアに行ったんですね。砂丘でアクロバット的な写真を撮っていて、誰もいない砂丘に僕だけが頭で突き刺さった写真がたまたま撮れたんです。意図せずに。2024.10.10 00:25
大鹿村第二世代が受け取ったもの。【TAKERU/田村 至】都市を離れて自然の懐へ。そんな80年代の流れのなかで、理想郷として羨望の的となっていたのが長野県の大鹿村だった。マツリ・カルチャーの源流のひとつがここと言っても過言ではない。その大鹿村で育った第二世代のふたり。親世代から受け取ったものを自分たちの世代にどう調和させていくのか。文・写真 = 菊地崇 text・photo = Takashi Kikuchiー ふたりは長野県大鹿村で小さな頃を過ごしました。ふたりの親世代が、都市の経済圏からの脱出と自由を求めて大鹿村に移住したのが80年代でしたよね。イタル 大鹿にいたのは小学2年生から中学まで。そして高校を卒業してすぐに旅に出ちゃった。タケルとは10歳くらい違うんですよね。今は10歳の違いをそれほど感じていないけど、18歳と8歳じゃずいぶん違うよね。大鹿のうちらの親世代は、人間関係がすごい近いっていうか。家には親の友達が連れてきた知らない人がいつもいるみたいな。タケル いつ来て、いつ帰るのかもわからない旅人たち。小さかった自分たちにとっては、遊び相手がいるくらいの感覚で。イタル 畑もやっていたから、泊まった旅人は畑を手伝っていく。そんなルールみたいなものは決まっていたのかもしれないけどね。ー 最初のマツリの記憶は?イタル うちの家は、マツリによく行ってたんですよ。88年の〈ハチハチ〉も覚えているし、その前の年に開催された〈隠魂(おに)祭り〉も覚えている。〈隠魂祭り〉は、〈いのちの祭り〉のヒッピー側というか、山側というか、そういう人たちのなかではいいマツリとして残っているみたいで。近い仲間が集まって、みんなの持ち寄りで純粋な感じで成立したマツリだったらしい。そして翌年にそれを広げる形で〈ハチハチ〉が行われた。〈ハチハチ〉は、子どもの目線から言うと、酔っ払いがいっぱいいたという感じ。酔っ払って喧嘩とかもあったし。タケル そんな時代だったんだよね。喧嘩することもコミュニケーションだった時代。喧嘩しても翌朝には何もなかったかのように笑って付き合っている。そんなシーンは俺らの世代にはないから。俺のはじめてのマツリが〈ハチハチ〉になるんだろうな。そのときは1歳で、テントでずっと寝ていたって。それ以降の濃い記憶で言えば、イタルがインドから帰ってきて阿蘇で開催した〈旅人の祭り〉の1回目。あまり出かけない家だったんだけど、イタルがやるんだったら阿蘇まで行こうぜっていうことになって。イタル 99年だから、もう25年前か。タケル はじめてライブしたのが2000年の鹿島槍での〈いのちの祭り〉。大人たちが小学生だった俺たちの時間をセッティングしてくれていたっていうことがすごいことではあるんだけどね。あそこでライブをやっていなかったら、たぶん俺は音楽をやっていないし、あそこでいろんな人に出会っていなければ、今の自分はないと思っているね。ー イタルさんは、なぜマツリを開催しようと思ったのですか。イタル 18歳から旅をして、全国のいたるところに友だちができたんですよね。海外にも友だちができた。会いに行ったとしても、ひとりずつしか会えないじゃないですか。だったら友だちを一カ所に呼べば、一気にみんなに会えるっていうことを思って。開催することを決めた後は、みんなに手紙で連絡して。旅している間は、住所録見たいなものを大切に持っていて、出会って仲良くなった人に住所や連絡先を書いてもらっていたから。みんなに会いたいっていう純粋な気持ち。〈旅人の祭り〉はそんな気持ちではじまったんだけど、どのマツリにもそれと同じような純粋なものがあるんじゃないかな。ー 会場を阿蘇にしたのは?イタル 旅の間に「99年9月9日、まだ誰もやろうとしていなけど、どうする?」っていう話になって。話の流れで「99だから九州でやろう」っ言ったんです。それが言い出しっぺとなって、九州でやることになって。〈ハチハチ〉は八ヶ岳だったから、〈キュウキュウ〉は九重でっていう話もあったけど、結局は阿蘇に収まって。九州は〈虹の岬まつり〉に行って、そこでマツリの楽しみ方を覚えたところだったんです。主催のDADA CHILDのロクロウさんは〈ハチハチ〉にも出演していたこともあって仲良くなってもいたし。ー 2024年の今回の〈いのちの祭り〉では、イタルさんが共同代表、タケルさんがステージ制作を担っています。イタル 声をかけてもらって、中心メンバーのミーティングにはじめて参加した際に「何をやるんですか?これがやりたいっていうことがあって開催するのですか?それとも2024年が12年に1度のサイクルだから開催するのですか?」って聞いたんです。そしたら「12年に1度と決めているわけじゃない」と。けれど、今年やらなかったら次はないのかなとも思って。みんなでひとつのマツリを作り上げる。〈ハチハチ〉はそうやって行われたけれど、実はいろんな問題や分断があったと聞いています。2000年も2012年も。親世代が方向性の違いによって分裂したんだけどね。今回はリセットという部分も確かにあるなって思っていて。タケル 確かに受け継ぐときではあるんだよね。前のことを丸ごと受け継ぎたいわけではないけれど、大事なこともいっぱい含まれているから。正直、俺は12年に1度なんてどうでもいいと思っているけれど、〈ハチハチ〉世代の人にとっては、今回が最後だと思って参加する人も少なくないだろうし。いいタイミングなんだと思う。イタル 新しいものとつながってきたもののバランスをいかにとるか。それが親世代とも話せる俺たち世代の役目なんだと思う。ー 今年の〈いのちの祭り〉が、どんな場に、どんな時間になればいいと思っていますか。イタル 今回の〈いのちの祭り〉も、純粋に友達に会いたいっていうのは一番なのかなって思っています。イベントとしてのクオリティを高くすることや何らかの波を起こすことよりも、古い友だちとしっかりと話ができる場所を用意していくことが一番大事なのかなっていう。SNSを通して近況を知っているつもりにはなっているけれど、実際に何年ぶり、何十年ぶりに顔を合わせて、言葉にならないニュアンスみたいなものを交換することがすごい必要じゃないかって。価値観を共有する仲間たちと会う機会ってどんどん少なくなってきているから。タケル 今という時代に開催されるっていうことも、とても大事なことだと思うんですよ。例えば〈いのちの祭り〉の当初からの大きなテーマとして「ノーニュークス」がある。2011年には福島で原発事故があって、「ノーニュークス」を超えたところに今はいなければならないと思っているんだよね。そんなの当たり前じゃんっていう。「ノー」ではなく、共有できる希望。88年とも、2000年とも、2012年とも、参加する人のテンションは違う。子どもたちの未来に何を残せるか。それって、今もみんなが統一できる心だと思う。だからその心を持ってユナイトしていけたらいいんじゃないかなって。2024.08.24 04:30
「虹」に込められたビジョン。【Dr.A.SEVEN】60年代後半から続いている日本のカウンター・カルチャー。そこには多種多様な表現やメッセージも内包されていた。「虹」をコンセプトとした数々のマツリやイベントは、人を混ぜ込んで行く時間にもなった。そしてそこから新しい希望が生まれていった。文 = 菊地崇 text = Takashi Kikuchi写真 = 林大輔 photo = Daisuke Hayashiー いわゆるマツリと呼ばれているものに、いつ頃から関わっていらっしゃるんですか。セブン ベトナム反戦運動や安保闘争の狭間で1969年にアメリカで〈ウッドストック〉が行われ、日本でも開放的なフェリーフェスが多発していた。日比谷野音で〈10円コンサート〉などが開催されてね。この〈10円コンサート〉などに賑やかしスタッフとして入ってたんですよ。頭脳警察のパンタさんなどにも可愛がってもらって、いろんなフリーコンサートのメンバーになってね。でも他にも不思議なマツリは多かったよ。ネットのない時代だから相当あった。自らのアンテナ磨いてないとね!(大笑)ー 〈10円コンサート〉というのは?セブン ギターリストの成毛滋さんがオーガナイザーのイベントで当時の東京都の条例で、入場料が10円だから会場費が格安(減免)になったかもね。みんな「知恵」を絞って規制からの抜け道を手探りしていた時代ってわけさ。知恵の実を食べる流行りもあったね。日本初のロックイベントとも言われていて、ロックバンドがジャンル超えて出演してたけど、天井桟敷とか紅テントや黒テントの人たちも、舞台衣装のままでチラシをまきに来てたり、客席でパフォーマンスしたり、不思議な連中が勝手に風呂敷を広げてフリーマーケットをしたり。考えてみれば、それってすべてマツリの不思議大歓迎なエッセンスだよね。日本の伝統文化系祭りじゃなくて、欧米諸国の政治事情も芸術文化も加味した、自分たちの世代が生み出すオリジナリティのあるマツリだなって思い行動するわけさ。なので70年代前半から気が付くとずっとマツリに関わっているんだよね。ー 最初にセブンさんが企画・主催したマツリ、あるいはイベントってなんだったのですか。セブン いろいろやってたけど、自分で「これだ!」って言えるのは、1974年に神奈川大学でやった〈オールナイト・レインボー・ショー〉だね。サイケデリックなオールナイトパーティー。ー それをどんなものにしたいと思っていたのですか。セブン 当時のアンダーグランドのバンドを集める。久保田麻琴&夕焼け楽団、裸のラリーズ、現代音楽系のタージマハール旅行団とか。アングラっぽい匂いを残しつつ、ショーとして遊びたかった。ニューヨークのアンダーグラウンドの映画を16ミリで上映して、スライドで合成したり。視覚はバッチリ。音楽だけではなく、映像や照明、デコレーションなどで、空間を演出していく。イメージとしてはサンフランシスコのフィルモアウェスト。特にバークレーのミニコミや音楽系の雑誌が、東大の社会学部の資料として入って来ていたし、その研究の手伝いもしていたから、記事を仲間たちと翻訳して。音楽そのものよりも、記事を通して視覚、ビジュアルやムーブメントの超越的なメッセージ性が先にあってね。ー 根っこにあるのはカウンター・カルチャー?セブン 正にそう。カウンター・カルチャーにはヒッピーとイッピーがあって、俺はどちらかといえばイッピーサイド。社会的な運動が、俺にとってのカウンターパンチだから。ー セブンさんにとってマツリはどんな存在だったのですか。セブン こんなに種族がいっぱいあるんだと教えてくれる場所。アート集団もいれば、大地に帰れとメッセージするグループもいる。自分より10歳くらい年上の世代では部族もある。フンドシだけでハプニングする裸族なグルーブ…。それらそれぞれの持っている一番いいエッセンスを、エンターテインメントショーとしてひとつにしようと。それが〈オールナイト・レインボー・ショー〉だったかもねーいろんなところで起こっていることをつないでいった。セブン レインボーって架け橋だから。つないでいったというよりも混ぜ込んでいった。「スピリチャル・コラージュ」さ!ー つないでいくこと、混ぜ込んでいくこと。それは88年の〈いのちの祭り〉にも刻まれているし、今年の〈いのちの祭り2024〉にも受け継がれていると思います。セブン 例えば世界的「アースデイ」発信で、メジャーなフェスでも同じ意識があるわけだし、いろいろなフィールドにエコロジー的なビジョンが含有されている。〈ハチハチ〉では、あそこまで全体が動き出すとは思わなかったね。みんながいろんなアイデアを持ち込んで、それぞれの分野でオーガナイズして、全体が成立していった。みんな手弁当で集まってね。こんなこと、もう2度とできないと思ったよ。ー それが今年も開催されます。セブン 〈ハチハチ〉でまかれた種が、いろんなところで芽を出しているでしょう。みんなが育てて、次の世代へとつながっている。今年の〈いのちの祭り2024〉も、みんながちゃんと顔と笑顔を合わせる場所にしたいな。SNSを通して、この人はこういうことをやっているということは知ってたとしても、実際に会って話すことで、また新しい何かが必ず生まれるはず。SNSではつながっていない人とも会えるわけだし。仲間たちが集まる。仲間を増やしていく。みんなの思い入れが良い感じでできあがって行けばマツリなんだかから、楽しむ気持ち、気軽な遊こころも持って集まれれば、光合成さ。2024.08.20 00:15
世代をつなぐマツリ・カルチャー。【井出 正・教子・天行】2000年の鹿島槍で作られた「ウーマンズ・ティピ」。男性中心のマツリではなく、女性のための空間が企画された。マツリとしての多様性を保持するために「ウーマンズ・ティピ」が生まれたのは必然だったのかもしれない。都市を脱出した親と都市から戻った2世のマツリ・カルチャー。文・写真 = 宙野さかな text・photo = Sakana Soranoー 2000年に鹿島槍で開催された〈いのちの祭り〉には「ウーマンズ・ティピ」という場所がありました。どんなきっかけがあって、そこが生まれたのですか。教子 松本にある神宮寺というお寺でプレイベントがあったんです。そこは広島の原爆の火をずっと灯してきたところ。プレイベントは、音楽もあり、ミーティングもあり、出店もあり、小さなマツリのような雰囲気だったんですね。そのときに、女性中心のミーティングの場ができたんです。正 お寺の座敷だったよね。教子 いのちのこと、性のことだったりお産のことだったり、自分たちが悩んでいたり考えていたりすることを素直に口にする、いいミーティングができたんですね。そのなかで〈いのちの祭り〉の会場のなかに、女性のための空間、ティピを作ろうという話が盛り上がったんです。そして会場に大きなティピを用意してもらえることになりました。ー どんな場所をイメージなさっていたのですか。教子 いろいろやりたいことが女性たちから出てきたんですけど、基本としてあったのは、子宮のなかみたいな安心の場を作ろうということ。ー フェスやイベントは、男性目線というか、男性が中心になって構成されることがほとんどだと思います。そんななかで、女性発信の場があることが画期的ですし、新しい方向性を示していたように思います。教子 女性性は男性性と違う部分があって。すべてを包括するような、そういうエネルギーを女性は体内に抱えていると思います。「ウーマンズ・ティピ」のなかは、とにかく安心で安全な場所にする。男性は基本入らない、女性たちが泊ったりもできるような空間。そこには助産師さんを招いて出産のお話をうかがったりだとか。火を焚いて、みんなでご飯を作って食べたりとか。本当にいい空間になっていたと思います。7日間の開催中は大鹿村の寿満子さんと内田ボブさんのパートナーのみどりさんが、管理人として「ウーマンズ・ティピ」を守ってくださっていました。ー そのときには子どもも多かったのですか。教子 中心になった女性は子育て中の母親でした。この子(天行)も4歳でした。赤ちゃんから小さな子どもたちがたくさんいました。子どもを育てているとき、女性にはいろんなエネルギーが生まれてくると思います。子どものいのちを守る。本能的にそれがあるんだなって自分でも感じました。子どもを授かって、子どもを産んで、子どもを育てる。女性にはいのちというものを預かる大事な役割があると思うんです。だから食の安全にも目が向くし、平和のことにも目が向くし、環境のことにも目が向く。いのちを守ることの様々な活動をする女性が多いですよね。そんな子育て中の母親たちは、とても素敵だなって思っています。正 女性たちが自分たちの心に正直になっていたから、それを知っていた男性は献身的にサポートしていたしね。教子 男性のサポートがなければ実現していませんでしたから。神宮寺のミーティングのときには「女性たちだけの力でやろう、ティピも女性たちの手で建てよう」って盛り上がったんですけどね。マツリの準備に行って、長くて太いティピのポールを見た途端に「女性だけで建てるのは無理!」って思って。私たちが途方にくれていたのを見ていた男性陣が、「よっしゃやるよー」ってポールを立てて、大きなティピを張ってくれたんです。それはとても手際よく見事で、みなさん嬉々としてやってくれて。そのときに、男と女の役割っていうものがあることをすごく実感したんです。特に山のなかで暮らしていると、力仕事が必要になる男性の役割と女性の役割の違いがはっきりありますから。ー 「ウーマンズ・ティピ」のような場所は〈いのちの祭り〉の後も続いていたのですか。教子 2000年の翌年。浜岡原発の近くで原発をテーマのマツリがあったんです。〈平和の集い〉と言ったかな。そこに「ウーマンズ・ティピ」のメンバーがそろうことになって、久しぶりに会えるので、「お茶飲んでおしゃべりしたいね」なんて話していたんです。マツリのスタッフの女性にも声をかけて。それが広まっていって、30人くらいの女性が集まったんですね。自己紹介しながらひとりひとりの思いを話す。それを議論するのではなく、みんなが受け入れて聞く。そういう空間になっていました。それがすごく良くて。翌日には参加した女性たちがとても前向きな気持ちになれたと話してくれて。それから何回か女性たちだけの集いを開催していました。その後もシンガーソングライターの故海老原よしえさんがライブのあとに輪になって思いを分かち合う「ウーマンズ・ティピ」を引き続き開いていました。ー 今の時代はジェンダーレスが言われていますが、境界を作るとか作らないとかじゃなくて、男性にも女性にもそれぞれが大切な役割があるはず。教子 役割があるからこそ、お互いが補い合えるんですよね。補い合って、相手のその部分を認めて感謝する。ティピを張ってもらったときにも、自分たちだけではできないことでしたから、すごく感謝しました。そこに男と女のいいバランスがあるんじゃないかっていうことをそのときに実感しましたね。2024.08.15 23:00
日本のカウンター・カルチャーを伝すること。【槙田(きこり)但人】88年の〈いのちの祭り〉を記録した『NO NUKES ONE LOVE いのちの祭り’88』の版元でもあったプラサード書店。ヒッピーからカウンター、そして〈いのちの祭り〉へとつながっていく時代の熱情を、次世代に残すために。文・写真 = 菊地崇 text・photo = Takashi Kikuchiー 渡辺眸さんの50年に及ぶ写真を収録した『遊行め』が発行されました。きこり 10年近く前に、ポン(山田塊也)の『アイアムヒッピー』を復刊させた枡田屋昭子と一緒になって、60年代後半に青春時代を過ごした先輩方の話をじっくり聞く会をはじめたんです。先輩方はどんな青春時代を過ごしたのか。そしてそれがどう今につながっているのか。その会の副題は「カウンターカルチャー・アーカイブ」。16人で18回やったんです。ー そのなかに渡辺眸さんもいらっしゃった。きこり (渡辺)眸さん、諏訪之瀬島の詩人のナーガ(長沢哲夫)、『名前のない新聞」のアパッチ(浜田光)、〈中津川フォークジャンボリー〉にも出演し〈いのちの祭り〉でも中心メンバーだったナミ(南正人)さん…。十数人が60年代に、どれだけどんなことをしたのか、本にできたらいいなって思うようになったんですね。自分でできることは何かないかなって思ったときに、誰かひとりの本だったら作れるかもしれない。眸さんは、東大全共闘の安田講堂を内部から撮った唯一の人であるばかりではなく、部族の連中との出会いがあって、諏訪之瀬島でも88年の〈いのちの祭り〉でも写真を撮っている。僕らが知っているシーンをたくさん撮っているのに、それが一冊の本になっていないんです。じゃあ、それを作ってみたいって思って。ー きこりさんがヒッピーカルチャーに興味を抱いたきっかけを教えてもらえませんか。きこり ヒッピー、フラワーチルドレンっていうのが高校時代。新聞とか雑誌を通じてでした。70年に高校を卒業して、東京に出てきて予備校に通いはじめたんです。安保の年だったんで、多くのデモにも参加してたんです。「ハレンチ学園全狂頭」とか。だけど安保が徐々にしぼんでいくなかで、どうしようかと思っていた頃に「砂川反戦塹壕」っていうのがあるっていうのを知って。今の立川基地ですね。基地に反対する人たちが塹壕を掘って、そこに立てこもっていた。そこでオマツリが開催されるということを聞いて、参加したんです。簡単なアンプでのロックバンドの演奏があったり、パフォーマンスがあったり。開放空間を共有するイベントであり、そんなイベントははじめての体験でした。その後「75キャラバン」をやって。新月と満月のときに集まる場所を決めて、沖縄から北海道まで旅していく。そしてプラサード書店という本屋になって。2024.08.13 00:55